僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

おじさん臨界点

最初のブログで、「僕は何者なんだ」ってそれはそれは暗い調子で書き連ねた。

あの時は今よりもっとしんどかった。少し恥ずかしい内容だけど消さないでおく。

それも僕だから、メッシが息子の名前を足首に彫るタトゥーのように、いつも忘れないで傍に置いておきたい。

 

昨日、オードリーの若林さんの著書「ナナメの夕暮れ」を読んだ。

 

ナナメの夕暮れ

ナナメの夕暮れ

 

今日書いているブログが、やたらと抽象度が高くて、出てくる物事をやたらと何かに例えようとしているのは、この本の影響。

 

雑誌ダヴィンチで掲載されていたコラムをまとめたもので、「悩める人」「疎外感を感じる人」にすごく共感が得られると思う。

僕は若林さんの文章力に嫉妬もしたし、他人から否定されている気持ちになるのも、すごくよくわかる。TSUTAYAに置いてある椅子に腰かけて、うんうん頷きながら読んだ。

この本で一番印象に残っているのが「世界を否定することをやめたら、自分も否定されなくなった」と書いてある部分。

厭世家でひねくれている著者は、他人が何か目立つことをしたら「恥ずかしい」とか「あんなの俺だったらやらない」って否定する。

いざ自分がやろうとすると、その言葉がフラッシュバックする。「あんなに否定していたのにお前もやるの?」って。

だからやらないことを選択する。そうすると何もできなくなっていく。

 

他人を否定することは、自分に返ってくるってよく言うけど、以下のような流れだと思う。

①何も知らないから否定する(ex.ダサい~恥ずかしい~俺ならこうはやらないな等)

②自分が何かをやろうとする

③自分に対しても他人に掛けた否定の言葉が呪いのように降りかかる

④やめてしまう。故に自信がなくなる

⑤やめてしまう自分に対しても自作の呪いの言葉が降りかかる

⑥なんとか立ち上がって、②にいく

 

僕は⑥までを幼少期からずっと繰り返して30歳で寝込んで起き上がれなくなった。何もできない自分が嫌で嫌で仕方なくなって、自分を否定して最悪のループに落ち込んだ。

結局は①のところが変わらないと、ずっと訳分かんないまま失敗してしまう。

 

きっと、世の中にはこのループの最中に命を諦めてしまう人もいると思う。死に至る病が絶望なら、その病原菌は否定だと思う。

 

大学生の頃、半裸の男性が踊るビデオを教授が見せてくれた。「これは最初に音頭を取る人だよ」って。何かを始めるのは恥ずかしい。でも僕の前を行く皆は、全員裸で踊ったことがある人だって思った。

僕の裸を指さして欲しくないから、人にも指さない。それが原則。

否定をしなければ自分が自分に否定されない。否定されない自分は暗に肯定されている。肯定されていると自分も生きていて良いんだって自信がつく。

 

このルートに乗っかって生きることで、人は厚顔になっていくんじゃないか。

このブログを読んでいる人はおそらくもっと厚かましくなっても大丈夫な人。

 

さっきの本に、若者の役割は破壊でおじさんの役割は創造。と書いてあった。

 

今の僕は何者?って聞かれたらおじさんだよって答えようか。