僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

内省を攻略せよ

最近、内省する時間が減っている。

1か月前までは、自分がどうあるべきか、自分がどうしたいのか等々、自問自答の時間が起きている時間の半分くらいを占めていた。

ここ2週間くらいにおいては、何をするにしても考えずに挑戦できている。失敗も多いけど。

もうちょっと詳細に書くと、行動をする際に一瞬色々過りはする。「これでいいのかな」とか「大丈夫かな」って。だけど、その思考を鼻息をフンってやって一緒に飛ばす。そうすると元通りになって行動に移れる。

毎朝やっている床掃除も、今日は昨日のフットサルの疲れがあるよな、って一瞬過る。そしたらフンッ!自分の部屋の床掃除をやっている最中も、別にキレイだからいいんじゃないって自分が言う。鼻息フンッ。

 

思考にも2種類あると思っている。ひとつは「論理的思考」で、もうひとつは「内省」。

論理的思考は、基本的に大好き。1時間でごはんを作るためには、まず圧力鍋でごはんを炊いて、もう一個のガス台でスープに取り掛かる。2つのガス台が埋まっている間、サラダと炒め物になる野菜を切って、ボウルに置く。肉は後から。という具合に、瞬時に組み立てて実行する。これがこうなっているから、こうなるという組み立て。

 

一方内省は、漠然とした不安が主戦場。未来はどうなるんだろう。ノストラダムスの予言は当たるのだろうか。僕はこれからどうしよう。などなど。始めた瞬間から迷宮入りが確定している。

内省は、僕にとって非常に好きなものでもある。実体のない真理を追究する哲学も好きだし、自分がどう感じるかについて自分を問いただして、言語化するのが大好き。

内省の特徴は、答えが今は出ないこと。僕をはじめとする真面目な人々は、内省から行動を考えちゃう。先に書いたとおり、「うーん」って考えるのは大抵答えがでない。だから、どうしよう答えでないじゃん!やばいやばい!ってなる。こんなに時間を費やしているのに、こんなに考えているのに。って僕はなりがち。

それを突き詰めすぎると、生きるか死ぬかの2択がどうしても待っている。その決断を毎日できるほど人間は強くできていない。だから、内省はしんどい。僕は鼻息で内省を吹き飛ばしている。

 

もうちょっと、内省や思考について書きたい。

 

論理的思考も内省も含めた「思考」全般は、組み合わせ作業だと思う。

自分の中にある知識、経験、思い込み、願望等々、それらの組み合わせる作業で、答えを出すのが「思考」。

「論理的思考」は、さっきの例で言うと「料理をつくる」前提があり、「何を作るか」も決まっている。要は思考材料が揃っている。だから後はそれを組み合わせるだけ。

何が言いたいかって、「内省」は思考材料が揃っていないがゆえに「内省」足り得るんだってこと。

どうするか決めるための材料が無いものを、悩んだって永遠に答えは出ない。米がなかったら炒飯は作れないのと一緒。

その足りないピースを探すための知識や経験など、行動をして探してみたら、自問自答で悶々とするのが終わるのかも。

全てを論理的思考にして、合理的に思考ができると、決断をするのがすごく楽だと思う。思考を当てはめるだけの簡単なお仕事。思考の合理化については明日、書いてみたい。

 

一方で、内省をしないと、組み合わせ作業の大事なパーツである「思い込み」や「偏向性」が分からないっていうツッコミが僕の中で沸いた。地獄から抜け出そうとしたら地獄が待っていたという最悪のケース。

 

確かにその通り。

けど僕は内省で自分を探したこともあるけど、結局は「自分が関わってきた人で出来ている」って気が付いた時に、自分にどんなバイアスがあるか自覚できたと思う。

 

「自分が関わってきた人で出来ている」理論は、「相対化」と他人がいる感覚」で成り立っている。

 

妻よりも僕はぐちぐち考えるのが得意だなとか、キャプテンよりも外国に行きたいって思考が強いな、とか。相手を見て、自分がどういう人間かが分かる、みたいなこと。これが相対化。

 

もうひとつ。思考を含めた所作の中に「他人がいる感覚」。僕は最近靴を揃えている。妻に教えられてできるようになった。だから揃える度に妻を思い出す。

目玉焼きを焼くときは、兄を思い出す。油を多めに引いていたな、とか。この表情は父親のやつだな、とか、昔の上司のものだな、とか結構頻繁に思い出す。

「相対化」と、「他人がいる感覚」を含めた「自分が関わった人で出来ている」という言葉を、咀嚼して自分の気づきにできたら、きっと内省は省略できるようになるんじゃないだろうか。