僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

「合理化」の意味

昨日、妻が何か楽しいことしたいねって言ったので、僕は普段飲まないセブンアップをゴクゴクゴクって飲んで、7×7はしじゅーくだよねぇ!!って笑いたいって言ったらウケた。

その提案ができるのはサイゼリヤだろうということで、夕飯はドリンクバーとイタリアン。

セブンアップは無かったけど、トニックウォーター(甘い)のに氷を沢山いれて、「しちしちしじゅーく!がははは!」と言って乾杯した。

 

沢山食べて、胃がもたれていたから朝食兼昼食はスープパスタ。スープを作って乾麺も同じ鍋で茹でて食べる。美味しかった。

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昨日書いた「内省を攻略せよ」では

 

yashimaryoz.hatenadiary.jp

 内省は答えが出ないものしか内省足り得ない。よってネガティブになりがち。

なので、思考材料を、行動や思考などによって獲得し、内省から論理的思考に移ろうというのが昨日の記事。

 

そんで、今日書こうと思っていたのが合理的な思考について。「合理的」の意味と言っても良いと思う。

現代社会において「合理的」は大人で、「非合理的」は幼稚だと思っている。自分の行動に対して合理的に判断ができるようになったら大人になれたって言っていいんじゃないかって思っている。その根拠について書いていきたい。

 

合理的の意味は辞書で言うと、「道理に敵うさま・能率的」。

 

大学時代、労働経済という授業で、派遣労働の問題について取り上げたVTRを見て感想を書け、という課題があった。

田舎出身の優しいカッ君の書いた課題のタイトルは「合理的な社会が生んだ現実」。さぁ何を書くんだろうって思ったけど、ここでいう「合理的」は「経済的合理性」という「道理」に敵うさま。派遣労働者を雇用すると、正規雇用の社員を遣うよりも、1時間あたり1000円のコストカットになりますよ、みたいなこと。

 

「合理的」の意味は、↑の例でいうと、A社は〇〇という現場において、お金を沢山使って、人を育てるという選択もありながら、経済的な合理性を選択した。という含意がある。

要は他の多種多用ある選択肢のなかから、この場で適用させる「道理」を自分で選択する必要がある。これが合理的になるうえで非常に重要。

 

ちょっと例を。

僕のタリーズでいつも注文するのは、エスプレッソ。僕にとっては合理的。

僕がタリーズで重視するのは、値段が安さ。味が好きかどうか。

タリーズという範囲では、この2つを道理にしている。だからエスプレッソ以外のものは頼まない。という具合に、自分で自分の道理は決められる。

これが妻の場合、「糖分を摂取したい」っていう道理を敵えるために、ある程度のコストを払ってなんとかかんとかマキアートを頼むのも「合理的」。

 

道理には、善悪の基準がないと思う。僕の道理では派遣社員を遣うのは嫌。けど、僕が大企業の切迫した部門担当者だったらするかもしれない。

存在するのは、置かれた環境と自分の嗜好でしか選択することができないから、自分以外の誰かから選択した道理を揶揄されるのは、大抵の場合意味がない。

 

サラリーマンが好きでもない相手にニコニコしているのは、「相手を立てることで自分と会社を好きになってもらう」が、その場で選択した道理だから。自分で選んでいれば、ね。

 

自分が今、この場所でどうしたいか?って選ぶのが大事で。その基準である「道理」にまっすぐに突き進めば、それが合理的で、能率的にもなる。

 

その場で何を優先するべきか、瞬時に脳が判断してくれて道理を導き出してくれる。生きるのが楽になった。おすすめ。