僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

ゴリラ・ウンコ・マザコン・愛

ゴリラは、バナナを食べずにタケノコなんかを食べるらしい。

Twitterで見かけた。じゃあなんでゴリラはバナナというイメージになったんだろう。

そういえばゴリラに意外と詳しい。ドラミング(胸を叩くやつ)はグーでやりがちだけど、じつはパー。皆知っているか。

そういえば、以前山極寿一さんの「ゴリラからの警告『人間社会、ここがおかしい』」を読んだことがある。よっぽどゴリラに興味があるらしい。

それとうんこを投げるのは求愛行動である。とか。小学生の時の遠足で、動物園に行った時、チンパンジーにうんこを投げられて、皆がキャーキャー言って逃げ惑った記憶がある。うんこを投げるのが求愛なの。すげえな類人猿。

 

ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」

ゴリラからの警告「人間社会、ここがおかしい」

 

 とある人にマザコンだねと言われた。自覚はあるけど、改めて言われると衝撃がある。「マザコン」と言う言葉。

僕は、母子家庭で育って、まぁまぁ苦労したと思う。お金は無かったろうし、冷たいコンクリートの階段を4階まで登った狭い家だった。隣の家に住む長髪ヒゲの旦那が「火つけるぞ!!」と言って騒いでいたこともある。

そんな環境で子供3人を育てながら働いている母を、慮らない訳は無いのが人間の理だと思う。まぁ僕が母を労わっていたかとか、どう思っていたかなんて覚えていないから、今考えると辛いんだろうなって思っていたんだろうなって思うくらい。

でも、他人から見るとマザコンなんだろう。何が悪いんだ!

男性は母親が総じて好き。男性が求める理想の女性像の大元は必ず母親。もう、それは揺るがない事実だと思う。

 

女性は母親となった瞬間に偉大でなきゃいけない存在になる。もう、子供が産まれた瞬間(もっと前か)から女性や人間でなくて、母親という存在に代わるなんだと思う。

子供の生命を維持するのは父親にもできる。離乳食を作ったり寝かしつけたり。けど、無辜の愛情を注ぐのは母親にしかできないと思っている。

 

愛情の種類には大きく分けて2種類あると思う。条件付きの愛と、条件なしの愛。

前者は、「子供だから」「お金がもらえるから」「母親だから」っていう理由が付くやつ。きっと愛という名の「恩」とか「甘え」とかなんだと思う。偽装的な愛。

後者は、自分自身を愛しているから、条件なんて要らない。子供だから愛するんじゃなくて、自分に似ているから愛するんじゃなくて、目の前に相手が存在しているから愛する。たったそれだけ。

愛する、愛さない、の選択や逡巡の余地無しに、既に愛している状態。

 

心理カウンセラーの大島信頼さんは、脳が近くにいる人の快・不快などの感情などを読み取って自分のものにする機能があるという。彼はそれを「脳ネットワーク」と呼んでいる。

僕は、脳自体にWi-Fiの様な機能は無いと思っている。その代わり、表情や体の動きなど、現在は言葉にならない部分までも脳は読み取ることが出来て、それを自分のものと追体験して、感情が引き起こされるんじゃないかって思っている。

2軒先のよく泣く赤ちゃんの母親は、難しい顔をしていていつもしんどそう。間違ってはいないけど、まず自分を愛してな!って心の中で声をかける。(実際にはかけない)

「子供は親をよく見ているよ」ってよく言われる。その言葉の意味は、母親が母親自身を愛しているかどうか、そしてそれをもとに自分を愛しているかどうかを見極めようとしているんだろうなって思っている。

そして、本当の意味での愛情を得られないって悟ったとしても、諦めきれず、赤ちゃんは泣き喚くんだって思っている。正直言って、僕も諦めきれていない。だから泣いてしまう夜もある。マザコンだからね。

 

これまでは子供目線で書いてみた。ちょっと長くなってしまっているけど、母親目線でも書いてみたい。

母親となった女性も当然ながら、元々子供。母親がいて、上に書いたようなことを知る知らない、できるできないは別にして、くぐり抜けてきて母になっている。少なくとも産むかどうかっていう選択は必ずあったはずだからね。

自分を愛せていない人が母親だった場合、不幸の連鎖は続く。というか、その連鎖そのものが不幸であって、連鎖としてしか存在しない。

 沢瀬直太朗さんの「アダルトチルドレンから自由へ」では、不幸せがアダルトチルドレンであって、幸せはアダルトチルドレンでないこと、と断言していた。

 

アダルトチルドレンから自由へ

アダルトチルドレンから自由へ

 

 

だから、「責められない」って一旦思った。母親だって大変だったよね、とか、祖母だって戦争とかあったからね。とか。

でも、祖母が愛してくれなかったからって、子供に関係なくないか!?って思った。

そりゃ、システムとして崩壊しているのは分かる。供給が無いのに需要だけがある状態。愛がインフレを起こしているんですな。

でも母親なら、後者の愛を提供するのが務めであるし、それが出来るかどうか判断の余地はあるはず。

定食屋さんではごはんを出すのが定食屋だし、客はお金を払うのが客。役割。お金を払わないお客さんがいて、「でも給料安いから・・・」って言って許される?僕は許されないと思う。だって、そこのお店の値段を払えないなら違う店に行けばいいし、自炊すれば良い。

それをせずに、「いやいや、わかって頂戴よ」なんて非合理が何で親子関係にだけ通じちゃうんだろう。

きっと偽装の愛のせいよな。親だから、とか子供だから、とか。親だって大変だからとか、色々。本当にどうでも良い。過去は過去で、今、僕やあなたが苦しんでいることが世界の全て。

だから、母親なんてくそくらえ。愛情表現としてのウンコを力いっぱい投げようと思う。自分を愛するがゆえのウンコ。苦しんでいるみんな、母親にウンコ投げよう。

 

続く。かも。