表現の不自由と動物の権利
表現の不自由展が話題である。
詳しくは知らないけど、少女像を設置してうんたらこんたら。
それでやっぱり、撤去。
これを通じて、表現の自由とはなんぞやって社会に訴えるってことなのかな。
だとすると、なんか変。自分で作り上げたストーリー通りになって、「ほら!自由じゃない!」って言っちゃうのは、「いやそうしたかったんでしょ」でしかない。
もし撤去されないんだとしたら、もっと素敵な表現方法を探すでしょ。
それとも、撤去までが仕組まれてて、そのストーリーをお届けするやらせ状態だったとしたら、まぁ面白いかなと思う。
他人を悪者にする前提(この場合では撤去した人)で、表現するのってダサい。
撤去した人も、撤去する人展をやればいいと思う。こんなの作っちゃうから、撤去せざるを得ない可哀想な俺たち。みたいな。警備員の制服を着たおじさんの像も横に置いておこう。
品川で、動物愛護の募金を訴える人がいた。一緒にいた人が「そんなことするならバイトしてそのお金納めろよ」「私は肉食だからペットは飼わないし、飼うときは肉食をやめる」と言う。まぁ最もだとは思う。でも僕はなんかその言葉に違和感を覚えた。
おそらく疑問に思ったのは2つポイントがある。
1つは、啓蒙目的であるということ。街頭に立って大声だすことで、動物がこんなに可哀想なんですと知ってもらう。原始的な方法。だから単にアルバイトをして納めることで彼らの目的は達成されない。だから街頭に立つ。啓蒙だったら、お金を稼いでもっと規模を大きくやった方が効率的かもしれないけど、それは選んでない模様。
啓蒙はお金になるのに時間がかかるから、とっつきやすいのが募金だったのかもね。
もう1つ。肉食と動物愛護の観点。牛は食べていいのに、犬は可愛がるのが矛盾するよねってことだと思う。
でも牛は食用に育てられていて、ペットは愛玩用に育てられている。要は用途の違い。殺す殺さないじゃなくて、そもそも生まれさせてる時点で、変わらない気がする。まぁ牛とかは、屠殺をしなきゃいけないっていうのはある。その時の苦痛が問題であると。
どちらも人間の目的の上で作られたものを、殺して食べちゃうのと、育てて死ぬまで面倒を見るのにそんな差はあるかな〜って思う。どっちも残酷でしょ。
きっと僕のいた家は、兄が持ち出したピーターシンガーの動物の権利の言説に支配されている。
ちょっと勉強して、ちょっと家で話したら、それが八島家ルールとなる。
むしろそのルールを以て、家を飛び出して啓蒙活動までするのが、ルール。徹底されている。決められたことを守るんじゃなくて、決められたことを察して、外に出て大声で言うまでがルールを守るってこと。
やくざの親分が「あいつ邪魔なんだよなー」って言ったら、子分がそれを察して懲役覚悟でその人を亡き者にする感じ。親分は「いや、指示なんてしないよ」っていうやつ。指示はしてないし、ただ感想を言っただけなんですけどね、みたいな。
ある意味、言葉ってそういう風に使われている。言葉を額面通り受け取るんじゃなくて、裏側の意味を汲んで、行動する。それが一番言った人物は気持ちがいい。
漫画「銀と金」でも、不要になった親族を殺してもらう役目を受けた、主人公グループが、言われてはいないけど、察して邪魔になる人物を消すかどうか葛藤するシーンがある(その漫画では行動に及ばなかったけど)。
こんな簡単な構造にさえ気づかなかった、少年時代。
そんな話。