僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

納得納得納得

あなたは日々の全てに納得をしていますか?怪しい宗教で聞かれそうな質問。

どう答えるだろう。僕の中で納得はめっちゃ大事。納得できるかできないか。それ以外で多分動いていない。

「納得できる」が当然ベストで、「これから納得できそう」はベター。最近は「納得していないことに納得した。」も大体いける気がする。これがきっと人生にとって大事な要素だと思う。そんで、「納得してない」はいまだに嫌だし、「納得していないことに納得していない」も大分嫌い。

 

というか納得って何だろう。

 グーグル先生に聞いてみると以下のように書いてある。

他人の考え・行為を理解し、もっともだと認めること。

 「教授の言葉に―した」

 

他人の考え?自分の考えは既に納得してるから、考えたりえるってこと??

分からない。きっと「他人の」が大事になってくる。

でも、理解なら説明ができる。それは、起きた事象などを違う言葉を使って説明できることだと思う。どこかの本に書いてあった気がする。

僕は、納得がしたい。

「俺は納得したいだけだ。納得は全てに優先される!」 スティールボールランのジャイロツェペリのセリフ。

 僕もそう思う。納得がこの世を運営する大きな部分を占めている。

当たり前のようだけど、何で納得って必要なんだろうか。

僕は納得しないと動けない。それは全ての行動は心からでありたいし、そうすることが自分にとって良いことにつながるって信じている。

 

あ、わかった。僕を含めた個人が主張する言説は、全て他者からのものだからだ。

論文だって、引用を挟まずにはいられないし、スポーツだって誰かがやった技術をマネする。

完全なオリジナルなんて世の中に一つもない。たとえ離れ小島に一人で住む、自給自足をする人でも、その考えや行動が完全なオリジナルでない。

もしかしたら、DNAとかそういう先人のものかもしれないけど、とにかく他者からの情報なんだ。それを抽出して変換してオリジナルっぽくしているだけだから。

人は、完全にオリジナルな存在だと思っていたけど、そうじゃないんだ。個体としてはそうかもしれないけど、考えや行動はオリジナル足り得ない。コピーが絶対混ざる。というか色んなコピーを自分流に(それもコピーだけど)貼って付けたのをオリジナルと呼んでいるだけなんだ。

 

だから、納得なんだ。僕が僕のものとして日々書いているこのブログも、本や誰かの言った言葉を変換して打っているだけ。それがオリジナル。独自性。

 

目に見える全てのものも、目に見えないものも含めて他者が介在して存在しているんだ。だから納得という言葉になるんだ。

そして、最初の質問に戻る。日々の全てに納得しているか。

何度も言うけど、世の中にあるすべてのものも、これから生まれるものも他者が生んだものの再編集版。その他者性を自分のものとしているかどうか。さっき載せたグーグル先生のでは「もっともだと認めていること」と書いてある。

要は、納得って「他者のした行為などを、あるもの(起きたこと)として認識しているか」ってこと。これをもう少し使いやすく変換すると「他者の行為を認められること」だ。これってほぼイコール自分を認められることだよね。というか、他人を認めると自分を認めるっていうのの垣根がほぼ無いよねっていう証だよね。これ結構すごいんじゃないの。

自分が他人のコピーだなんて思って生きると自我が崩壊しそうになるけれど、自分を構成する要素は他人でしかあり得ないし、自分も誰かにとってはその構成要素であると。

それの還流が命そのものなんだって気が付いた。

 

僕は最近、荷物が重い。いつホームレスになるか分からないから、着替えと肌の保湿用品と、作業道具と上着を持って歩いている。当然重たい。大きいポーターのリュックが6割くらい埋まる。

それで気が付いた。荷物は重くない方が楽。いや、当然なんだけどね。当然なんだけど、意外と気が付かないのよ。持てるだけ持っていた方が良いってなるでしょ。けど、それによって行動が阻害されてるのにも結構気が付けないのよ。

ピロウズのNewAnimaという曲で「リスクは少ない方が良いって近所の犬に言われたけど」って歌う。バンプオブチキンの歌でも「リュックの中は空にしたかな」と歌う。

荷物の重さとリスクの多さは、信頼の無さの証だと思う。

 

手ぶらに近いほうが良いのよね。このブログだって、だんだん文章が長くなっていってる。それって、文章がうまくなっている(自賛!!)反面、自信が無いがゆえにグダグダ書くんだと思う。伝わるだろうか、これで自分の想いは伝わっているだろうか、ってね。

それで何が言いたいかって、納得は確かに必要。必要だけど、世の中に納得が出来ない事象は起こりうるんだなって思う。

僕はきっとイスラム国の人達が、なんであそこまで頑張るかは一生分からないし、京アニの犯人がガソリンを撒いちゃう気持ちは理解できないし、納得ができない。

だから、どんなに理由を積み重ねたって、事例を沢山持っていたところで、納得の材料になるかどうかは分からないし、納得できるかも不透明。だったら、その持ちすぎた荷物を捨てるか、どこかに置いちゃうほうが、楽になる。

 要は納得のための納得を目指すんじゃなくて、行動のための納得をすること。

そんでその納得は、多分手ぶらに近づくことだと思う。これまでより、より楽になるための納得を目指すってこと。

もしかしたらそれが納得できないことに納得することなのかもしれない。