僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

汎用なる言葉

一昨日、フットサルの後輩から「今日はタリーズから来たんすか?」って言われてドキっとした。どうやら見られていたらしい。動揺がバレないように「大体いつもいるよ」って返した。

最近、フットサルでチームと自分の目的と立ち位置を設定したら、俄然面白くなってきた。

チームはまずフットサルという競技性を理解すること。僕はそれを浸透させる役割。

 

プロであれば、クアトロから右回りのヘドンドで前進して、ピヴォに当てよう!で伝わるし実践できる。けど、アマチュアの中でも素人に近い僕らは、最低限のルールしか設定できない。

例えば、初歩的なエイト(8の字に動いてボールキープ)をやろう。というルールがチームにある。その方法は相手がプレスを前からかけてきたら、リスクが大きい。そんなの監督も分かっている。でも、その回避の仕方を言ってしまうとその次、次、次となって永遠に基礎的なことが覚束ない。

だから、監督はエイトをやろうとしか言えない。

おじさんである僕の役目は、当然出てくる「こういうときどうしようもできないじゃないですか」っていう不満をまず聞くこと。そしてサッカーがうまい彼らのプライドを傷つけないように、「〇〇っていう状況なら自由にやって大丈夫だから、次の試合まではとりあえずエイトやってみよう」って言って、相手の考えも僕の考えも尊重できる中庸ポイントを探る。

勝つという目的のために、感情と言葉をコントロールする。それが段々できるようになってきている。面白いなぁ。

 

昨日も例に漏れずタリーズに行った。そんで、千葉雅也さんの「勉強の哲学 来るべきバカのために」を読んだ。 

勉強の哲学 来たるべきバカのために

勉強の哲学 来たるべきバカのために

 

 「可能性をとりあえずの形にする、言語はそのためにある」この一節、名文だと思う。

この「とりあえず」も、勉強したことをとりあえず音にしたいオタク的な気持ち悪さ(享楽的な言語の使用と言っていたはず)も、僕には言い表せなった。正直悔しい。

カレー、フットサル、筋トレのこととかをこれ見よがしに喋りたくなる欲求がある。その源泉を紐解いてくれたお陰で、自分が「なぜ話すのか」について理解が出来た気がする。

千葉さんが言う「生活の別の可能性を開く、慎重に立ち止まって環境と自分のこれまでの癒着がどうなっているか分析してほしい」も、勉強の気持ち悪さに対するエールだと捉えた。

哲学も化学も社会学も、生きる人のための実践的であるべき。そうでない学問に意味は無い。だけどそれの対極にあるであろう、「勉強の気持ち悪さ」も読書の気恥ずかしさも理解できる。「何のためにやってんの?」っていう誰からも言われていない、自分の中のオーディエンスから野次られて、気持ちが萎えがち。

彼が言っているのはきっと、勉強→気持ち悪さ→(辿り着くかはわからないけど)実践へ、ということだと思う。気持ち悪さは、必ず介在していて不可避だよと。マルクスエンゲルスが言った「階級闘争」は現代に訳すと「気持ち悪さとの闘争」となるんじゃないか。

というようなことを、妻にべらべら喋って、存分に気持ち悪さを発揮しながら帰路についた。f:id:yashimaryoz:20190507130553j:plain

夕食は、八角風味の甘辛い豚肉と、ターツァイの炒めもの、人参と大根のピクルスとごはん。写真は無いけど、うすーーい塩味の大根スープも。

 

家族のストレス

 

最近、妻と決めているルールがある。

機嫌良くいられない時は、自分の部屋に行く。話ができるようになってから、部屋を出ること。やっぱり夫婦だから色々ある。難しいことも簡単なことも。

昨日なんかは、暑かったって理由で妻はずっと機嫌が悪かった。妻は暑さに弱い。

でも僕も妻も色々あるって前提。だから大崩れはしない(と思う)。

 

妻は他人 だから夫婦は面白い

妻は他人 だから夫婦は面白い

 

 この本が面白かった。でも、僕からするとドライすぎる。

もっと自分と相手のことを沢山知って、どうしたら2人で心地良くいられるかトライ&エラーを繰り返したい。そうすることで自分と相手の垣根を越えて、より良い家族になれると思っている。自分を含めた家族に対しても、「このままで良い」じゃなくて「もっと良くなれる」って向上心なのか意識が高いのか分からない心を持って毎日生活してる。重たいなぁ。僕。

 

これが、知り合いだったら違うと思う。

実際、昨日明らかに消沈している知り合いがいたけど、そこに触れちゃうと僕まで引き込まれちゃうと思って気付かない振りをした。ごめん。

たまに会う知り合いであれば、知らんぷりもできるしまた次会うときね、って思える。

 

ポジティブな言葉を使おう!って言説がよくある。その心は、「言葉は相手に気持ちを伝える道具」だってこと。自分の心のモヤモヤをそのまま相手にぶつけると、相手も嫌な気持ちになる。相手が嫌になると自分はもっと嫌な気持ちになる。

自分の心がどう思っていようが、口から音にして出す時にはポジティブに変換しないと自分がより傷つくと思う。

相手のためにポジティブな言葉を言うんじゃなくて、自分が気分良くいるために心地よい言葉を選んで使う。最近気が付いたこと。

それが巡り巡って、きっと自分の「運」みたいなものにつながる。はず。

 

情報も人間も仕事もたくさんあって、ストレスのもとは数限りなくある。僕は殊更ストレスに弱い。ネガティブに負けると、僕は寝込む。泣いて過ごした自分にまたなりたいのか?って自分にプレッシャーをかけて生活している。

 

あれ、それ自体がストレス?

 

はちみつとチーズ

昨日は、妻と歩いてタリーズに行った。僕はエスプレッソしか飲まない。妻は何か甘いやつだったと思う。

行く前に、パオバジ風の料理を作って食べた。要はカレーとパン

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美味しかった。鶏むね肉のあしらい方には定評がある僕。

 

昨日は、店員さんに恵まれた日だった。タリーズTSUTAYAもキャナリィロウもみんな素敵な接客をしてくれた。覚書的な意味も込めて書いてみる。

 

タリーズの店員さん達は、距離感を詰めてこない。毎回、エスプレッソダブル店内用ですね?って素敵な笑顔で聞いてくれる。嬉しい。家族の次に会う人がタリーズの店員。お互い名前も知らないし、いい天気ですね、なんてことも言わない。飽くまで店員と客の立ち位置だってことを分かったうえでの「店内用ですね?」。

毎回一緒の注文なのに、毎回初めての人と同じようにしてくれるから、おやじいつもの!って感情にならない。というかそういう感情は元々ついてないっぽい。

 

タリーズで読んで、気に入ったのでEMI「僕が僕であるためのパラダイムシフト」を買おうとTSUTAYAのセルフレジに行った。

 

僕が僕であるためのパラダイムシフト

僕が僕であるためのパラダイムシフト

 

 

会計をしようとすると、色々画面に指示されて難儀した。そうすると男性の店長が教えてくれる。「ポイント使いますか?使うんでしたらこちらのボタンです」ってGショックを付けた腕の手振り付きで教えてくれる。

「セルフレジなのにすみません」と言うと、「いえいえいえいえ」と。

この短い会話の裏側に沢山の言葉が込められていた。(と思う)

僕:「(せっかくの人手を使わない)セルフレジなのに、(しかも店長さんを動員させてしまって)すみません」

店長:「いえいえいえ(これを一回教わって、次までに覚えてもらえればこちらとしては万々歳なんですよ!)」

ってことだと思う。

お互いがお互いを気遣うのは単純に良い。店員と客の関係性を大事にしたうえでのいい関係性。嬉しかった。

 

キャナリィロウで。背丈も顔も小さい、女性。高校生?大学生?年齢不詳。

いつもバイキングを食べすぎて、ピザを余す。この日はクアトロフォルマッジ。

そうすると、その女性店員が小鉢にスプーンを入れて持ってくる。「はちみつをつけて食べると美味しいですよ」と。

 

妻は異常にはちみつが好き。ポパイでいうところのほうれん草。ルフィでいうところの肉。キン肉マンでいうところの牛丼。食べると目がカッと見開く。妻がはちみつを好きなんじゃなくて、はちみつに愛されているんだと思う。そういえば歩いている時、ずっと頭上でクマバチがぶんぶんしていたのもそのせいか。

 

しょっぱいチーズに、甘いはちみつが合う。帰りに、その店員に「すごく美味しかったです、どなたの計らいだったんですか」と聞くとよくわかっていない表情。

もう一度「美味しかったですよ。」と言うと「他の店でやっているんですよ」と返してくれる。

僕は、その計らいをしてくれた人にありがとうと言いたかったけど、それは伝わらなかった。けど、何かを聞きたいんだっていう意図を汲んで返答してくれた。それで大丈夫、あなたがすごく天然なのは理解しているから、大丈夫。

 

 

登場人物全員が、善意しかないとさも当たり前のようにスムーズに事が進む。チーズもはちみつもどっちも美味しいから、合わせても美味しい。

当たり前になりがちだけど、今のところ都度有難い。

 

不幸ダッシュと満たされぼんやり

昨日、みずがきひろみさんの「母の呪縛をといてありえないほど幸福になる方法」を読んだ。

正直、タイトルは変。冗長だし漢字変換忘れた?って思った。

でも内容は普遍的で、そうだよなぁってうなづいて読んだ。周りからはキモいおじさんと思われたと思う。

 

母との関係を考えて、急に言語化が進んだことがある。

それは「不幸せ」にはダッシュ力があると思うこと。

 

自分は不幸せだから、頑張らなきゃ!っていう衝動って結構すごい。僕が知っている、北海道では名の知れた豪腕社長が結局言いたかったのは「お母さん愛して」だと思う。

それを言いたくて、でも現実は言えなくて、それをバネにすることでしかやれなかったんだと思う。

 

僕は不幸ダッシュと呼ぶことにした、このやり方は確かに強い。今が辛くなきゃ明日が来ない的な生き方、生命のアラートをドンドン鳴らしていくスタイル。石の上にも三年。臥薪嘗胆。

 

僕は、伊勢志摩で倒れて自分の命に限りがあることを強制的に思い知らされた。僕はいつか死ぬ。明日死んでもおかしくないし、今死んでもおかしくない。サイコロの1が10個揃っていないだけの日々。それこそが、命の理。

 

死ぬかもって思ったから、逆に命のコップが満たされている(=生きている)ことに気がついた。満ち満ちで表面張力でキープされている。

 

環境にも家族にも母にも兄弟にも不満だらけだったけれど、命も、環境も満たされているから文句が言えたんだなと思う。

満たされている=足りないものが無い、ではない。今にも未来にも、欲しいものは沢山ある。そうなんだけど、今は持っていない。それだけ。心が満ちているから、飢えや渇きにならない。

 

不幸ダッシュは、飢えを源泉にしているから、強烈な原動力になる。

けど、その社長は結局、満たされずに亡くなった(と思う)。外面としては、大きい家があって、格好いい車があって、妻がいて息子がいて、孫がいて等々。でも本当に見て欲しかったのは、多分お母さん。

石の上にも三年や、臥薪嘗胆の意味は、辛酸をベロベロ舐めることでも辛苦を耐えて耐えてってことでもない気がする。継続ができることを、できる形でやり続けろってことだと思う。もしかすると継続している間、その石は冷たく感じる時もあるかもね、くらい。

 

そう、不幸ダッシュが満たされてないからせかせかしているのに比べて、満たされている=ぼんやりだとも思う。

僕のここ最近のぼんやりした頭は、満たされているからなのかもしれない。上田に戻ってきてから全く論理的思考が働かない。

不幸ダッシュと満たされぼんやりは水と油。つい最近までの僕と妻。

不幸側は、幸せそうなぼんやりを見てイライラする。なんで今を変えようとしないのって思うから。

心屋仁之助さんの言ってる、前者後者の話も近いと思う。

 

今日か明日には元に戻っているかもしれないけれど、このぼんやり満たされている感に浸ろうと思う。

匂いに敏感

今日は気持ちの良い天気だった。朝起きて、窓も玄関も開け放つ。玄関を掃いて、床を掃いて水拭きをする。自分の部屋も同様に掃除。

倒れる以前にルーティンにしていたことができるようになってきている。

 

今日は、1週間振りにタリーズまで歩いて行って本を読んで来た。もちろんエスプレッソも。

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昨日まで続いていた頭ふらふらはまだある。思考がまとまらないのも継続。

けど、面白いのが、頭をぶつけたからなのか、ショックを受けたからなのか、匂いに対して敏感になっている。

それと、あんなに強くあった不安感が弱くなって、ぼんやりして過ごしている。なんでだろ。

 

タリーズまでの道すがら、マラソンランナーが何人も走ってくる。歩道が狭いので、僕が車道に出る。すれ違うたび、彼らが使っている洗剤の匂いがはっきりとわかる。

嫌というわけではない。でも、わかっちゃう。

 

タリーズに着いてからも、匂いが気になる。口紅の匂いや、コーヒーの匂い、アイロンを当てた髪の毛の匂い、それらがストーリー付きで頭に入ってくる。

不思議と自分が飲んでいるエスプレッソは大丈夫。

 

カップルが隣の席に座った。男性は白いパンツに大きい靴に長いコート。前髪は一部分だけ長く、まっすぐにしている。ビジュアル系みたいな線の細いタイプじゃなく、体も顔もゴツゴツしている。

彼女は、化粧で顔を白くしている。スカートの上に更に透明なスカートを重ねている。

そんな2人が席に座った途端、僕の頭に映画館の映像が流れてきた。あ、キャラメルポップコーンの匂いだ。

アリオで映画を見て、タリーズで休憩だ。ゴールデンウィークでやることが無い人の自然な流れ。

この嗅覚過敏(とはちょっと違うと思うけど)、頭のモヤモヤと一緒に数日で治れってくれたら良いのだけど。

 

そんな状態でも、久しぶりにタリーズで読書ができた。日常が戻ってきたことが嬉しい。

妻が買ってきた、ビアードパパの小さくなったシュークリームを笑って食べられるのも、適当に作ったインドカレーを食べられるのも嬉しい。

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想像上の生き物

今日も日がな寝ていた。頭がぼんやりして、イライラする。出かける体力も気力も無い。

頭の働きが鈍いのが一番のストレス。論理的な思考と、ポンポンアイデアが思いつくのが僕なのに、今日の夜までは赤ちゃん帰りした高齢者の様に、何も考えられずに過ごしていた。

 

伊勢で倒れた時、すぐに親のことを思い起こした。あ、親に連絡しなきゃ、って。すぐ思って父には連絡をした。

父は、そんなことがあったのかって聞いてくれた。普段恥ずかしがって僕の話を聞かないから、嬉しかった。

 

そして上田に帰ってきてから、また寝込んでいたんだけど、今度は母親に連絡しなきゃなって思っていた。東京で別れて以来、連絡を取らないで大分経つ。

あれ、僕は死ぬ準備をしているのかって不安になる。

 

妻にもそう話すと、「電話してみたらいいじゃない」と。

久しぶりに母の番号を探してかける。7コールくらいで出た。気絶しちゃって、体調がおかしいんだって話をしたら心配をしてくれた。

3分間も話さなかったけど、母は「頑張っているのね」と僕の身を案じてくれていた様子だった。

 

電話を切って、もう一度両親を想像する。

 

前までは2人ともキツい顔をしていたのが、スッキリとした体格でニッコリ笑っている。父は2011年以降の枯れた姿で、母は今より若い姿。

 

あぁこのイメージを創るために、わざわざ三重まで行って気絶したんだなと思う。

 

父と母に心配してもらって、2人のイメージを書き換える作業。

これをするために、遠くまで行って、体調をおかしくして帰ってきたんだ。

 

それに気がついたら、今まで頭がぼんやりしていたのが、一気に無くなった。顔色も悪かったのに、急に良くなる。効果覿面。

 

一緒に住んでいるわけでない両親は、想像上の生き物に近い。自分に影響を与えたことが明らかなキャラクター。親。

その想像の部分さえ書き換えられれば、過去の難しい話も悲しい話も、自分の都合の良いように上書きできるんじゃないだろうか。

 

そんなズルいことができるようになるのが、大人の良いところ。

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これは知り合いが飼っている、想像上じゃない犬。

邂逅

令和になったらしい。元号が変わる際に放出されるエネルギーにあてられた僕は(嘘)今日もずっと体調がおかしかった。

 

多分自律神経失調だと思う。朝から晩までフラフラ目眩に似た症状。それに合わせて、フラッシュバックみたいなのもある。どんな小さなことでも、嫌な記憶が連なって蘇る。

そういえば、3月までは泣いて過ごしていた。だから、また会ったね。という感覚。乗り越え方は前のは知っていたようだけど、今回のは知らないかもしれない。

 

厭世観からも、自己否定からも生涯逃れられないんじゃないのって、未来への絶望感がある。

 

世の中は考え方ひとつだし、そのおかげで元気になってきていた。けど、あんまりじゃないのかね、神様。

10万円を稼ぐことがそんなに駄目なんですか。気絶させてまで止めたい理由はあるんですか。僕は気絶より辛い時間を長々と延々と過ごしています。

そう知りもしない神様に愚痴るしかできない。

 

僕が、これから毎日前向きに暮らせる時は訪れるんだろうか。

いっそのこと、って何度も何度も考えた。

3月に死にかけて、何とか立ち上がった。少し安定してきたと思って、小銭を稼ごうとしたら、それすら僕には許されない。

「人間、失格」じゃないのか。

僕は人間足り得ない。社会は僕を人間にしてくれないし、僕も自分を人間と認めない。

 

何が足らないのだろうか。何が不満で、何が駄目なのだろうか。

 

死なんて美しい、ドラマチックなものを、世界は僕に用意してくれない。泣いて寝転んでも、自律神経失調になってもまだ心臓は鼓動し続けて、肺は酸素交換を繰り返す。

状況は好転している筈。好転しているからこそ、同じ場所にまた戻ったことを僕自身が苛む。

 

自分の身体が憎らしい。どうしてもっと憐憫を誘う不具や奇形に生まれなかったのか。セックスをして産み落として、勝手に離婚して勝手に劣悪な環境で育てた父と母も同様に憎い。生きる権利を付与しておきながら安穏としていいはずが無い。

テレビでは超難関大学に合格して、母親に感謝する美しい場面。それを見ながら寝転んで鬱鬱とした文章を吐き出す僕。

 

どうしてこうなったんだろう。ってモゴモゴ口の中で喋る。

 

黙っていずに、僕に生きる力を育んでくれ。