僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

当たり前お化け

上田に帰ってきた。働けもせず、交通費と病院代を嵩ませて戻った。

 

妻は僕の好きなから揚げを買って待ってくれていた。ご飯とから揚げとスープとサラダを食べて、シャワーに入って早目に寝た。間違い無く自宅だけど、違和感がある。家具の配置も、物も何も変わっていないのは分かっているんだけど、脳がそれを受け止めない。

僕は小さい頃からアリスの国症候群を持っている。風邪を引いた時など、体の近くにあるもののが大きくなったり小さくなったりする。とってもとっても大きな綱が近くにある感覚で、綱の表面の細かい糸までが見えてくる。

その大きな綱の横で寝ていて、圧倒される感覚。怖いというか、圧倒されて引き込まれそうになる感覚。それが昨日から続いている。

 

右手の裂傷は塞がりつつあるんだけど、脳というのか、頭というのかぼんやりして働かない。風邪かと思って熱を測るも、36度台。

今日は一日寝ていた。朝起きて、パンを一枚食べて、寝る。夢だけは素敵なものを見た。起きて、炒飯を作って食べる。作る手がぎこちない。

食べた後も寝る。寒気が止まらず、クローゼットにしまっていた冬掛けを取り出した。

 

体調がすんなり悪くなってくれるなら、対処仕様があるけど、そうじゃない。頭がぼんやりして考えがまとまらない。何となく悲しい思い出が頭を去来する。

雇用元の人と話が噛み合わなかったよな、とか紹介会社の女性が、訴訟だなんだとヒステリックに叫ばれたな、とか。断片的に思い出して、胃が押し潰されるように痛くなる。

自律神経が変な感じになってるのかもしれない。

 

伊勢にいる時、珍しく父に電話した。出なかったけど、折り返しが来た。今後鉄板ネタになりそうな気絶の話をしたら、「帰ったらいいんじゃないか」と言ってくれた。たったそれだけの会話だったけど、有難かった。

 

世の中は当たり前で成り立っているなと思う、健康もそうだし、親子の関係も。人がいないから派遣会社を使って人を募集するのも。募集してきた人が気絶したらもう働かせられないのも当たり前だし、交通費すら出ないのも当たり前。なんだ当たり前って。誰が決めたんだ。

当たり前を疑いたくて、人と同じことはできなくて今生きているけど、「当たり前」に容易く阻まれてる。

当たり前は手ごたえがスカスカする。言わずもがなだから。それをわざわざ言わせんなよってことしか言われない。僕は当たり前は当たり前と思っていないし、人によって違うから都度、確認したい。契約関係であればなおさら。

「当たり前」を言葉にして具象化することをお化けのように嫌がる人もいる。

あなたが言っていることは、〇〇で〇〇ってことですよね?と言うと、そうじゃない!って言われる。「当たり前お化け」を見るのが怖いから。論理的なのも、理路整然としているのも怖いから。

 

見えた!って言って怒っている人しか僕には見えない。

 

僕は論理的じゃない方がずっと怖い。分かっているよね、って関係性は脆いし危ないから。なぁなぁの関係で、言わずもがなで、阿吽の呼吸でいることの心地よさはきっと計り知れない。

 

僕がもうろうとした頭でこんなことを考えている間にも、社会は動いていて、あと3時間もせずに元号が変わる。

 

干からびた海藻

一昨日気絶して、昨日はダラダラして日がな過ごす。

今日も契約がどうなるかわからないので、待機している。

暇なので、また海を見に行く。

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昨日と同じ流木に腰変えて、気分は詩人。命について考えざるを得ない。

伊勢まで来て、死を覚悟した。あ、僕死ぬのかもって恐怖した。怖くて怖くて堪らなかった。

同時に生きたいんだって思った。

 

世の中は人の想いと確率でできていて、そのタイミングにバッティングしただけなのだろうけど、弱い僕はその意味をその意図を感じずにはいられない。

 

明日も健康で思った通りの日が容易く来ると信じていた。なのに簡単に身体と日常は壊れゆくんだって、神様に告げられた気持ち。

干からびた海藻が、流木の近くに落ちていて、触るとパキパキする。なみなみとうねったその形は命を感じる。

海藻には海藻の矜持があって、きっと海の中でもっと漂ってプランクトンを食べたかったろう。海藻。

ゴールデンウィークの端役は、ちぎれちぎれになって、足元から寂寥たる僕を見つめる。

 

この海藻は僕だ。海から要らないって干上げられて、せめて人目のあるところに落ちたひとひらの屑。

誰も見てないし、気付かない。永遠の孤独。

朽ちるまで細かい砂利の上に横たわるだけ。

 

たったそれだけのことに、悲しんで騒ぎ立てるのが人で、黙っているのが海藻。

 

無意味なものに良き悪しも無いのに、色眼鏡をかけた自虐の化け物が人間。

 

富も成功も要らないって思えば獣化は収まるのか。

自尊心じゃない何かが決定的に足らない。心の塞がらない穴が、ここにいるって唸る。

人間なんだ、僕。下らない人間で、欲深い人間。

 

そうこうしている間に、雇用元から帰っていいよと電話が来た。

最後は、担当者と握手して別れる。人間の矜持。ここで乱れたら、相手が傷ついて、それで僕も傷つく。

 

伊勢神宮を見て帰る。仲好さそうなカップルが沢山。

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帰りも全部自由席。

気絶

昨日、失神した。

朝4時に起きて、電車を自由席で乗り継いで6時間。二見浦に到着した。

 

スーパーで買い物をして、宿泊場所へ帰る途中だった。

記憶があるのは、目が覚めたら大学生くらいの男女4ー5人に囲まれて座っていたところ。大丈夫ですかと声をかけられたので、大丈夫と言って立ち上がろうとしたら動いちゃダメよと。

救急車呼んでますから、ヨダレ垂らして倒れていたんですよと。状況が掴めない僕に若人達も必死。

なんでだろうって聞いても分かるわけない。そうこうしている間に、救急車が来た。どうやって乗ったかは覚えていない。でも車内で連絡の取れる人いますか?と聞かれたので、妻の名前を出す。

そして僕の電話で妻に救急隊の人が説明をする。「旦那さんが◯◯で倒れられまして〜」という内容だったと思う。

 

僕も電話で妻に話す「心配かけてごめんね。大丈夫だから」と。

まず自分の身を案じない自分の優しさなのか女々しさなのか、わからない。その時は、僕が哀れなのに妻を気遣う、可哀想ないい人を演じて自ら泣きそうだった。

でも今となっては演出めいてキモいなと思う。

病院について、ストレッチャーで院内に運ばれて診察を受ける。てんかんはないか、前にも倒れたことはあるか等々の問診。

睡眠不足だったこと、ご飯を食べてないこと等々も伝える。一応採血と脳のCTも。

結果はほぼ異常なし。三重県とはいえ関西系なのか、皆ペラペラ喋ってカラッとしている。

関西テイストに圧倒されているのが伝わったのか「長野の方ですよね、こっちの言葉とかまだ慣れないですよね〜」とイケメンな若い男性医師が言う。

その通りだよ、と言いたかったけど患者の身なので堪える。

指と顎にできた裂傷の消毒をやっておしまい。お会計17500円也。

 

三重の地には働きに来ていた。当然雇用元の方はどうすんだ、ってなる。

今日から勤務の予定だったんだけど、一日休んでと言われる。よくよく聞くと、明日からも働けないかもね、ということらしい。三重まで来て、失神して帰るゴールデンウィーク

まぁ当然か。失神するやつ置けないよね。

僕は大丈夫だし、医者も大丈夫だと言う。でも雇用元がダメと言ったら、倒れた手前強くは言えない。あぁなんで僕は気絶した。

風邪(病院で測ったら微熱があった)と栄養不足と睡眠不足と、強い風邪と重たい荷物。そんなんで気を失うか?

 

そういえば最近、やけにちゃきちゃきしていた感じはする。朝起きて掃除して、パソコン開いて、外出して〜という具合に思考を挟まずに動いていた。

熱のせいでハイになっていたのかもしれない。道中に読んだ太宰治人間失格にアテられたのかもしれない。

 

そんなこんなで、海を見たり寝たりして一日を過ごしている。

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あぁなんで気絶したんだ、僕。

 

「地域」が分からない

三重県内を電車で走っている。いくらか南に来たせいか、ぱっぱっぱと通り過ぎる緑が濃い。空の色も見慣れたものより紺に近い気になる。

ゴールデンウィーク初日で自由席の旅路なのだけれど、案外座れているし眠れている。うん、大丈夫なはず。

 

昨日は支度でてんやわんや。一日中パッキングしたり、チケットを買ったり。旅慣れはしている方だから、荷物は最小限。ベッドの中で思いついて、エスプレッソメーカーを持っていくか迷ったけれど、忘れてリュックに入れなかった。

 

それでも、タリーズに行く時間は確保した。本を何冊か読んで、妻と合流。

 

インゲンと人参が良さそうだったので、買う。豚軟骨も。家にあるもやしとほうれん草とでナムルを作って、圧力鍋で軟骨を角煮みたいな味をつけてビビンバにした。

出かける前日に作るものじゃなかったけど、美味しい。後半は酢を入れて味変。

 

一旦は妻と過ごす最後の日だから、お菓子とお茶でデザートタイム。

無印で買ったフロランタンが美味しくなくて悲しい。スノボールクッキーもイマイチ。

 

僕の家は長野にあって、三重に向かって電車に乗れば乗るだけどんどん遠くなる。

僕の戻る場所ってどこなんだろうって旅情のせいで思う。

母と兄が住む札幌は、僕が育った場所とは全く違う場所になっている。僕は門外漢。

父の住む仙台はどうだろうか。全然違う。好きな街だし美味しいものも沢山あるけど、今の僕を受け止めるホールド感は無い。

上田なのか。一番近いけど、そう遠くないうちに裏切りそうって思っている。

 

そう考えると、僕は場所と人にアイデンティティを求めない人。

 

対極にフットサルの知り合いは、地元で育って地元で働いて地元で死んでいく。恐らく。

既に3回も県を跨いでいる僕には信じられない感情。郷土愛。いつか感じるようになるのかな。

 

どの企業もどのサッカーチームも、地域貢献や地元密着を謳う時代になった。

 

出身が一緒トークが盛り上がるのは経験があるけど、地元に貢献してるなって経験をしたことがないからわからない。

嫌味じゃなくて、家の周りのゴミを拾ったら分かるのかな。

 

今ちょうど人間失格を読んでいて似たような箇所に出会う。世間は許さないぞ!と謗りを受ける竹一。それを受けて、世間とは個人じゃないかって思うようになったと。

世間も地域も実体が無い。その人が見知っている人の傀儡。

 

要は近くにいる人を誇りに思うかどうかってことなのか。好きだけど、それを地域貢献って言葉と行動に変換しない。ご飯でも奢る。

 

考えすぎないって考えてって考えて考えて

今日は雨。部屋が薄暗くて風がぴゅーぴゅー吹いている。今と自室の窓を開け放っているから湿気が混ざった空気が部屋を行き交って寒い。放射冷却だ。

 

明日から、伊勢志摩のあたりにいることにした。ゴールデンウィークの旅行なんて格好いいもんじゃない。何で行ったのか等々は現地で書けたら書こうと思う。

 

三重県までは私鉄とJRを乗り継いで行く。大体6時間位かかる予定。朝5時に出る。

全部の切符をインターネットで、かつクレジットカード払いにしたくて色々調べたんだけど、未だに多くがやっていないのね。JR切符は窓口。その点、新幹線は「えきねっと」等々ネットで買える。

 

鉄道などに疎い。名古屋まで行くのに何線を使うのか、行く駅がJRなのか新幹線なのか在来線なのかが分からない。

更に切符の購入窓口は、JR北海道とかJR東日本とかそれぞれの会社があって、切符の購入先はそれぞれだしネットで買えるかどうかもまちまち。(間違っていたらごめんなさい)

そんで、ちょっと交通系であると便利だと思うものを考えてみた。

 

・乗り換え案内から直接切符を購入できるサイト

各鉄道会社が統合したチケット販売サイトが作られたら、相当楽になるんじゃないかな。今はJR会社毎にアカウントを作らないといけないからアカウント整理からも自由になる。

・全鉄道のチケットレス化、事前予約可能化

切符の保管に対するプレッシャーがすごく苦手。失くすかどうかってよりも、簡単に落とせてしまう大事なものを持って歩くのが不安。

同様に事前予約可能にもなってほしい。当日購入しなきゃいけないっていう不安もすごい。時間は大丈夫かなとか、混んでいて間に合わなかったらどうしようとか。

 

手続きの簡便化やシームレス化って、時間が無いビジネスマン的な人にも必要だろうし、僕みたいに余計な心配を沢山してしまう人にとっても優しい。

毎日が「思考を経由せずに行動をする」が僕にとって非常に重要。だから「考えすぎ」に対してのケアを毎日やっている。

例えば瞑想。一旦は考えが飛んでも、思考を自分の中に戻す練習。部屋を暗くして、ろうそくを付ける。余裕ある日は1時間。無いときはベッドの中で。

掃除もそう。部屋がごちゃごちゃしていると、考えがあっちこっちに行ってまとまらない。以前、テレビで発達障害の人が会社のデスクに低い衝立を設置して情報を遮断していた。それとほぼ同じ理由。

最近沢山本を読んでいるのもそう。本の世界に没頭することで、嫌なこととか無駄なことを忘れる。それに知識も得られて一挙両得。

 

「Don't think,feel.」は名言。でももし実際に言われたら「うるせー考えてんだよ」って思うと思う。

僕はどこかで「うーん」って考える哲学者や思索家に思われたい欲求があるんだと思う。ニーチェの横顔素敵。

 

考えすぎないって書いている僕がまさに今考えすぎている。

「助けたい」は傲慢か

テストステロンさんという筋トレは最高のライフハックだって言っている方がいる。

Testosterone (@badassceo) on Twitter

筋トレ社長。この方が言う筋トレ万能説は僕も大好きで大賛成。全人類スクワットやれって思ってる。

 

筋トレ社長のとあるツイートに反応したアカウントに目を引かれた。

今が辛くて毎日泣いていると。自分が安心して受け入れられる場所が欲しいと呟いている。

僕は、つい最近までその人と全くおなじことを考えていた。だから助けてあげたいって不遜ながら思った。

助けてあげる、はやっぱり傲慢だ。そう思って何も出来なかった。自己意識の拡張を他人に求める行為だから。

 

果たして「助けてあげたい」の感情を発信源にした行為はくさされることなんだろうか。

すべからく、行為の是非は社会のルールに則っている限り誰にも決められない。理不尽さも気持ち悪さを包含していることも自覚して、葛藤しながら突き詰めるしかない。そう思っている。

 

少なくともその人自身が助けて欲しいって行動を選んだときの選択肢になる準備を重ねるしかない。準備が整った時にその人を助けられるように努力する他ない。

 

だったらグチグチ言わずやれよと自分が突っ込むんだけど、このブログを書かずにはいられなかった。

助けて欲しいって外に発信できただけで、良いんだよって言いたい。僕も発信しただけで認めて欲しいのと全く同じ。

 

「こうありたい」はそうなるための一歩って思いたいから。

今の僕は助けたいって発信するしかできないマン。

「辛いんだよを発信するしかできないマン」がいたら、話くらいさせてほしい。

お待ちしています。

「自由」の使い方あれこれ

昨晩はあまり寝付けず睡眠が足りない。曇天のせいもあって少々士気が低い。

最近は、夕食のサラダに自家製人参ドレッシングをかけている。人参とサラダ油と酢と砂糖をミキサーに入れて粉砕するだけ。見た目も味も良い。

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昨日も一昨日に引き続き、本を沢山読んだ日になった。

勉強をする目的があると、人はふんがー!!ってならずとも知識は入ってくる気がする。それが僕には新鮮。

 

世界史をほとんど勉強したことがないので、児玉克順さんの「世界でいちばんやさしい教養の教科書」は、もの凄く勉強になった。特に神と人間の関連が面白い。

中世以前は神に供物を捧げるなどして、あらゆる場面で「神」が行動指針であった。中世の封建制においては、権力者が「神」を後ろ盾にして市民を統治していたらしい。

 

その後の西欧諸国による帝国主義も「神」の教えを他国に押し付けるという形で進められたし、現代の国民国家においても「正しさ」は「神」と関連付けられて語られることが非常に多い。

 

僕が思ったのは、世界の歴史の中での「正しさ」は殆どの時間「神」を通して使用されているんだなと。

個人主義的な合理主義的な社会と言われて久しいけれど、それでも多くの人が「神」に縋って生きているし、大企業に勤めて家を買って子供を産み育てるという「大きな物語」的な世界に正しさを求めて生きている人も数多くいると思う。

 

権力者に威張られるのも嫌だし、船で知らない人達が乗り込んでくるような時代も嫌。今は、個人がある程度認められる現代に僕は生きていて。幸せの最先端にいる感覚。そう思うと嬉しい。

 

 自由の言葉の意味についても、その本に書いてあった。

LibertyやFreedomは、「解放」「制約の無い」という意味。日本語では「何をしても良い」という意味で使われがちだと。

 

僕が公共施設で働いていた時の話。所ジョージ好きな上司が、イベントで余った飴を来館者に「ご自由にどうぞ」と書いて置いておいた。

アフリカンドラムをしている利用者が、それを見て両手いっぱいにとってポケットに詰め込む。そして仲間達のポケットにも詰め込む。

僕は「いやいや~そういうのじゃないでしょ~」と言ったら、彼は「いや、自由って書いてあるじゃん」と。

「飴は自由と書いてあったらどこまでが自由として認められていているのだろうか」という議論はサンデル先生に任せる。

 飴事件は、まさに「解放・制約の無い」と「何をしても良い」の違いだと思った。

前者は、自由に行動をするために自らを統御するという含蓄があって、後者にはデストピア的な悪意の発露として使用されてしまう。

 

よく、自由と責任はセットだと言う。僕が書いた以前のブログでもそれに近いことを延々と書いた。

yashimaryoz.hatenadiary.jp

 

 

超要約すると「大人になるには自由に行動を選択しその責任をとれることが必要である」となると思う。

きっと僕も「自由」を「何をしても良い」として使用していた。だから「責任をとる」とわざわざ書いたんだと思う。

 

日本においても「自らの統御」という意味合いを込めて「自由」という言葉が使われないと、いつまで経っても「何をしても良いんだ」と、選択肢が無限に湧き出てくる苦しみに苛まれると思う。千葉雅也さんの言う「意味のある無意味」。

 

 僕が言う「大人」「子供」論議も自由の概念が大きく関わる。「自由」がゆえに何者にもなれない苦しみ。何とかこの事象に食らいついて、関わっていきたい。

神にも共同体にも会社にも社会にも正しさを見出せないのが、僕は普通だと思う。逞しくなろう。