僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

不幸ダッシュと満たされぼんやり

昨日、みずがきひろみさんの「母の呪縛をといてありえないほど幸福になる方法」を読んだ。

正直、タイトルは変。冗長だし漢字変換忘れた?って思った。

でも内容は普遍的で、そうだよなぁってうなづいて読んだ。周りからはキモいおじさんと思われたと思う。

 

母との関係を考えて、急に言語化が進んだことがある。

それは「不幸せ」にはダッシュ力があると思うこと。

 

自分は不幸せだから、頑張らなきゃ!っていう衝動って結構すごい。僕が知っている、北海道では名の知れた豪腕社長が結局言いたかったのは「お母さん愛して」だと思う。

それを言いたくて、でも現実は言えなくて、それをバネにすることでしかやれなかったんだと思う。

 

僕は不幸ダッシュと呼ぶことにした、このやり方は確かに強い。今が辛くなきゃ明日が来ない的な生き方、生命のアラートをドンドン鳴らしていくスタイル。石の上にも三年。臥薪嘗胆。

 

僕は、伊勢志摩で倒れて自分の命に限りがあることを強制的に思い知らされた。僕はいつか死ぬ。明日死んでもおかしくないし、今死んでもおかしくない。サイコロの1が10個揃っていないだけの日々。それこそが、命の理。

 

死ぬかもって思ったから、逆に命のコップが満たされている(=生きている)ことに気がついた。満ち満ちで表面張力でキープされている。

 

環境にも家族にも母にも兄弟にも不満だらけだったけれど、命も、環境も満たされているから文句が言えたんだなと思う。

満たされている=足りないものが無い、ではない。今にも未来にも、欲しいものは沢山ある。そうなんだけど、今は持っていない。それだけ。心が満ちているから、飢えや渇きにならない。

 

不幸ダッシュは、飢えを源泉にしているから、強烈な原動力になる。

けど、その社長は結局、満たされずに亡くなった(と思う)。外面としては、大きい家があって、格好いい車があって、妻がいて息子がいて、孫がいて等々。でも本当に見て欲しかったのは、多分お母さん。

石の上にも三年や、臥薪嘗胆の意味は、辛酸をベロベロ舐めることでも辛苦を耐えて耐えてってことでもない気がする。継続ができることを、できる形でやり続けろってことだと思う。もしかすると継続している間、その石は冷たく感じる時もあるかもね、くらい。

 

そう、不幸ダッシュが満たされてないからせかせかしているのに比べて、満たされている=ぼんやりだとも思う。

僕のここ最近のぼんやりした頭は、満たされているからなのかもしれない。上田に戻ってきてから全く論理的思考が働かない。

不幸ダッシュと満たされぼんやりは水と油。つい最近までの僕と妻。

不幸側は、幸せそうなぼんやりを見てイライラする。なんで今を変えようとしないのって思うから。

心屋仁之助さんの言ってる、前者後者の話も近いと思う。

 

今日か明日には元に戻っているかもしれないけれど、このぼんやり満たされている感に浸ろうと思う。