僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

普通は普通からは生まれない

今日まだ30歩くらいしかベッドから出ていない。体が怠くて、思考も呆けている。I.Qを今測ったら50くらい下がると思う。

 

頭の良さって、まとめられるかどうかだと思う。言葉だけじゃなくて、行動や価値観もそう。

世界にある多くのものが、言葉でまとめてある。

 

女性のホルモンバランスを指摘するのはナンセンス。焼肉は美味い。外国はおしゃれ。

そういう既存の枠組みを、平気な顔して利用する人とは友達になれない。というよりも「大多数がそうだから」「一般常識だから」という理由だけで、僕にもそれを求める人とは関わり合えない。

 

一般常識自体が、自分の価値観と癒着して離れないんだから、一般常識も自分のうちなんだという批判があるだろう。

そういう人はテレビを見て、うんうん頷いて、適度に政権批判とかバラエティ批判をして、自分の領分から出てこずに僕と出会わないまま死んで欲しい。よろしくお願いします。

 

マツコが、西野カナの歌詞について「自分のフィルターを通してこそ、創作物だ」と言っていた。

歌詞だけじゃなくて、生きること全部がそうだと思っている。

ベッドも布団も本も、身の回りにある殆ど全てのものと、殆ど全ての思考に対して、疑問のフィルターで濾している。

でも、「悩んだから素晴らしい」は嘘で悩まずに出てくる傑作はいくらでもあるだろうし、悩んだことと傑作かどうかが別の話。それは忘れちゃいけない。

 

焼肉美味しさって、すごいと思う。作り出した人は本当にすごい。そしてそれが、既存のサービスとして存在していることが素晴らしい。

焼肉を作り出した人が、これは美味しいはずだ!って信じたんだと思う。

18号線沿いにある牛角も、ツヤツヤ髪の店員がお辞儀してくる肉の割烹を謳うお店も、辿っていくと原点は、焼肉おじさんの焼肉信頼ははず。

そして、焼肉おじさんは当時めちゃくちゃオリジナリティの塊であったはず。

世界はカオスが当たり前だし、人は個性的なことが普通。

今の世の中で普通になっていることは、誰かのオリジナリティが作り出したことであって、決して普通から普通は生まれない。飛び出た個性や、逸脱した個人から生まれる。それを知らないまま受益し続けると、楽しい。VRをかけ続けられる愉悦。そういう人は学校が大抵好き。

 

少なくとも、僕はオリジナルで居続けているし、今後も居続ける。仮想現実を流し続ける眼鏡の奴には、僕は映らない。そもそも見えないんだ。

 

僕くらいの歳になると、オリジナリティという意味でもう手遅れな人は沢山見当たっている。

決して教育を越えないように、間違っても世間を騒がせないように、そして何より僕に近づかないで生きていてほしい。

 

 

ロカンタン

サルトルの著書「嘔吐」は、主人公ロカンタンから見た世界では、存在の枠組みがぐちゃぐちゃに認識されるようになり、それは不条理な嫌悪感であって、吐き気を覚えた、みたいな内容だった。

「存在」というのは人間からすると、あるいは共通認識という前提であって、それそのものを捉えていない。リンゴはどこまでがリンゴであるかなんて、人間が決めたものだし、実際には分からない。

そういう感覚は、わかる気がする。

何の問題も無い時にはそんな感覚なんてどこかに行ってしまうけど、何かしらの不調和があると、世界が歪む。

目だけが異様に飛び出た感じになり、体の他の部分は小さく痺れている。そして、近くにあるものは近くにあるのに小さく見える。相手の顔がとても小さくなって宇宙人になる。

手のひらの感が異常に敏感になって、体の5倍くらい大きなものになった感覚になる。

きっとサルトルもアリスの国症候群だったんだと思う。

 

何でこんなことを書くかというと、僕も今世界が歪んで見えているから。

歪むのは、認知不協和で自分の中の矛盾が生じているから。

 

僕の望みの大部分は、楽に生きること。それに付随して、色々好きなことをやりたい。そう思っている。だから、その後ろについている諸々を一回手放そうと思う。

 

平和な家庭

兄がやっているスパイスを買ってみた。

ラッサムというすっぱしょっぱい南インドのスープみたいなやつ。

トムヤムクンからエビ感を抜いて豆の味を入れた味。

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↑ここから買えるから、興味のある方はぜひ。

 

今日は一日ダラダラしていた。

ベッドで漫画読んだり、TSUTAYAに行って立ち読みした後、帰ってきてから電子書籍の小説を読んでいたりした。

はあちゅうって言う人の、「言葉を使いこなして人生を変える」という本を読んだ。

 どういう文脈で書いていたか忘れたけど、「意見を持っていないことに無自覚」「考えるクセがない」という言葉は、何となくメモをした。

言葉を使いこなして人生を変える

言葉を使いこなして人生を変える

 

amazonnのレビューだと酷評されているようだけど、わりに楽しめた。

彼女の言葉に対する、異常なほどのこだわりは面白い。僕も、この感覚、どうやったら伝わるだろうって一日何回も考える。ほとんどが既に誰かが使い古している言い回しなことが95%だけど、残り5%の僥倖目指して思考をしている。

 

キルケゴールは幼少期、論理的思考の訓練を積まされていたらしい。父親から空想の旅の話をしろと言われて、それに整合性が求められる。

言葉一つに対しても、論駁されて辻褄が合うように言い直させられる。あぁ厳しい毎日。

 

彼女は執着している割に凡庸な表現が多くてきっとそれも自覚していると思う。そういう意味できっと、僕と感覚が近い人だなと思った。

 

昨日、東北に住んでいるという19歳の男性とチャットをした。

車の整備士になる専門学校に通っているらしい。マークⅡなど古めかしい角ばったものが好みらしく、車の話などで盛り上がった。

 

ランクルは昔のが格好良いよね、というと、そうだね。と返ってくる。

ミニクーパーの古い車好きでしょ、と問うたら、好きだねーと答える。

 

一区切りついたところで、あなたの家って平和そうだね、と冗談めかして聞いたら、そうだと。

偏見かもしれないけど、何の問題もない平和な家庭に育った人は、自分の意見を持っていないし、それに気が付いていない。このチャットで言うと、2人で成り立っている会話が一方的に語り掛け続けないと、続かない。

だったら辞めればいいじゃない、という話。けど、僕にとって会話は、お互いの価値観を共有する場。ここは同じだね、ここは違うね、ってやりたい。

僕の大学の教授は、ゼミナールを説明したシラバスに「ゼミナールは単に出席するだけでなく、参画することを求めます」と書いていた。

まさにそういうことだと思う。

参画をしない、それを自覚しないで、「聞くことに徹している」(という自覚も無い)役割は、僕の中では存在しない。

 

平和な家庭に育ったのは、素晴らしい。生活に何の文句も問題も無い時間が膨大に存在したんだろう。

僕にもはあちゅうさんにもあると思うのは、飢餓感。それがあるか無いか。

良い悪いじゃない。

 

敗戦

フットサルを見てきた。

ボアルース長野対パサジィ大分。

知り合いがチケットをくれて、fリーグ初観戦。

 

ことぶきちくまアリーナは選手との距離が近くて見やすい。

試合は1-11でパサジィの勝ち。ボアルースはほぼ良いところなし。

 

おにぎり作って、朝ご飯もコーヒーも用意して万端だと思ったけどまた諍いになった。

楽しく機嫌良くいたい僕と、空気なんて関係ない超人。

越えられない。一緒にいることが全てだけど、少し楽しさとかを求めたら途端に駄目になる。

いい加減諦めろ。僕。

IQが10以上違うと会話にならないってどこかで聞いた。きっとそれ。

 

設定が大事だってプリミ恥部さんと吉本ばななさんが言っていた。

 

「違うこと」をしないこと

「違うこと」をしないこと

 

 

設定が大事、分かる気がする。
どうありたいか、それをまず決めておく。一日単位でも人生単位でも。

潜在意識とかそういうものだと思う。分からんけど。

こんなにしんどいことが続くのは、僕の設定が辛いことめっちゃ起きますよってなっているのか。

一喜一憂するのがいかんのか。感情に振り回されるのが駄目なのか。

しんどいのだけが確かで、あとは些事。

 

楽しいこととか良い時間が積み重なっていかない感覚。

 

ボアルースの監督が試合後に泣きながら「チームを家族として見守ってください」と泣いていた。

前回の敗戦から、今日まで準備してきて悔しかったと思う。

 

僕だって、準備をしてきて最高の結果を出そうとトライした。でも駄目だった。そうやって大勢の前で弱音を吐きたかった。苦しい胸の内を吐露して楽になりたかった。

 

脳が思考を止めてストレスを低減させようとしているから、細かい描写ができない。

 

RPG

オードリーのラジオで面白いことを言っていた。

若林が、売れない時代にバイト代を貯めてハロゲンヒーターを買った時、もの凄い喜びがあったと。今はより高機能なルンバを持っていても、大してうれしくないと。

それがなぜなのか調べていったら、脳の本に行きついたらしい。

人は、何かをして結果が得られると、脳の快楽物質がでる。ドーパミンだと思う。

バイト代を貯めて、我慢して節制をして得られたものはもの凄い喜び。

簡単に得られたルンバは、「貯め」が無いから大して快楽物質が出ない。

 

ゲームでも、一面は簡単にクリアできる。その後は、少し難しくして努力しないとクリアできない難易度にする。そうするとクリアしたときに快楽物質が沢山出るから。

ギリギリクリアできる難易度に設定されているゲームが、すごく売れるらしい。

 

この話は、人の生きることにそっくりつながると思った。

人生は、自分で設定しているRPGみたいなもの。ゴールも、直近の課題も自分で設定していると思う。

僕は、一回ゲームオーバーになりかけて復活した。そして、自己表現を言語でするっていうステージはクリアした。

だから、次のステージに入っている。でも、その攻略方法が見当たらない。

すんごいしんどい。

なんなら、最初のステージをクリアしたときの快楽物質の量も、もうちょいほしいなって思っている。

けど、振り返れば地獄が見えている地点にまだいるから、後ろ見ずでいる。

自分インタビューをしてみる

自分が考えていることを目に見える形にするために、自分インタビューをする。

いつにも増して自分語りだけど、お付き合いあれ。

 

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Q何がしたいの?

一番は楽に生活がしたい。苦しまないで日々が送りたい。好きなことで生活がしたい。

いわゆるサラリーマンは僕に向いていないことが、今までの人生で分かってきたから

自分で会社をつくって仕事がしたい。あわよくば素敵な企業家として生きていきたい。

 

Q好きなことって?

大きく3つある。

ひとつが心。こう書くと大仰だけど、結局そうなる。

もうひとつが、カレー。昔からカレーが好き。スパイスを使った料理が好き。

最後がフットサル。ここ2年ではまった。

 

Qそれをどう仕事にするの?

心について。このブログもそうだし、Twitterもそう。心と向き合ってきた人生を言語化して、それをお金にしたい。付随的に、同じように苦しんでいる人の助けになればいいなと思う。

今考えているのは、自分インタビューをwebサービス化すること。

自分語りをすることは、悩みの具象化だと思っている。自分と向き合うことの素晴らしさを世の中に広めたら、もっと生きやすい社会になる。

心について理解がある、共通の課題認識を持つ人と一緒に仕事がしたい。

 

カレーについて。

ミールススープカレーのお店の経営。

基本的に「人が苦しまない形」をとりたいから、会計は全てキャッシュレス。

メニューはひとつだけ。料金は1000円みたいに、明朗化。

ミールスケララの風が無き今、あっさりで食べ放題で安価な店が無い。そこに入っていきたい。

スープカレーは簡単にできるから、障がい者雇用の場にもなり得ると思っている。

飲食店は、長時間、過重労働、薄利多売になりやすい。だから、時間は区切って誰でもできるオペレーションシステムで運営する。

フットサル。

経験や勘に頼ったやり方じゃなくて、言語化したプレイをしていきたい。

判断さえ良ければ、身体能力的に劣ったとしても今のフットサル業界であれば、何とかなる気がしている。

練習を全て映像化、試合も同様。どうしてこのプレイの判断になったのかを吟味していく。

フットサルチームの運営とフットサルコートの経営がしたい。

 

Qじゃあそのために何をするの?

まずは、今の生活を変えなくてはいけないと思っている。

お金を自由に使えないから、行動もできない。行動が出来ないとどんどん腐っていく。それが一番つらい。

けど、これまで向こう見ずで行動して手痛い目にあってきた。お金を作る仕事をするのはやぶさかじゃないんだけど、そのためには上に書いた目標についてある程度形にしないと、動いたところでまた腐ってしまうと思っている。

 

Qじゃあやるだけじゃないの?

その通りなんだけど、今、ココナラやブログ、ツイッター等で結果が出なくてしんどい。しんどいから、逃げるようにどこかに働きに出たくなっているけど、それは駄目だって思いこんでいる。

トライして、結果が出なくて、じゃあ次どうするの、時間ばかりが過ぎているよって迷宮に入って焦っているのが現在。

 

Qじゃあどうするの?

今、ブログを書くことしかできない。この後フットサルに行って楽しんで、ゆっくり寝ることが今の目標。

 

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僕が考えていることは、やはり「苦しまない形」と「言語化」が共通項になっている。

それだけあれば、なんとかやっていけるのか。はて。

不安とランデブー

不安である。

体調のせいなのか、何も出来ない現在と未来を対比して焦っている。

思えば、ずっと不安とお付き合いしている人生だ。

最初の不安は、両親の離婚だと思う。以前に詳細を書いたから省くけど「どっちについていくの!!!???」が眼前で繰り広げられた。そこからずっと不安なんだろう。

 

小学生の頃、プリントが整理できなかった。大きい緑のリュックにADHD気質特有の「オルガンプリント」でパンパン。比喩じゃなく山のようにある紙達を、家に置いておくこともできず毎日持ち歩いて学校と家を往復した。ガサガサ音鳴っていたろうなぁ。

今なら捨てる選択肢が容易に出てくるんだけど、小学生の僕にとってゴミ箱は、親のテリトリー。一気に捨てることが出来ず、2枚ずつ捨てていたこともあったけど面倒になり、途中で諦めた。

 

教科書もすぐなくなった。社会科のシリョーシュー(資料集)がどこかにいってしまって見当たらない。

明日授業で使うのに、隣の人に見せてもらうのは恥ずかしい。ないとも言い出せない。双子の兄のを借りる。

多動気質も、リュックの中にあるプリントも、シリョーシューも父親も、僕の手で握っているはずなのに、見えない力が働いて勝手にどっかに行く。アンコントローラブル。

 

子供の僕には、リコンもオバケも変わらない、急に現れたり消えたりする現象。それが怖い。

現象として認識は出来ているのに、操作感が無い、或いはほとんど無く僕に影響を与えるものは、分かりづらく僕を不安にし続ける。

 

 

年齢を重ねて、不安とお付き合いするようになった。

それが出来たのは、「大人のルール」を認知したからだと思う。

不安でい続けることも、それを解決すること行動を起こすことも、大人は自由。

どっちでも良い。選択の自由が与えられていて、それを選ぶことに他人が介在する余地は(ルール上)無い。

 お金持ちでも貧乏でも幸せでも不幸せでも、自由。あなたが選択すること。「どうあっても良いけど、自分で選択して自分でやってね」。そうやって社会は回っているみたい。

 

そうやって考えていたら、一日が終わりそう。

今日はセントジョーンズワートのお茶を飲むことにする。

 

生活の木 有機ハーブ セントジョーンズワート 100g

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