不安とランデブー
不安である。
体調のせいなのか、何も出来ない現在と未来を対比して焦っている。
思えば、ずっと不安とお付き合いしている人生だ。
最初の不安は、両親の離婚だと思う。以前に詳細を書いたから省くけど「どっちについていくの!!!???」が眼前で繰り広げられた。そこからずっと不安なんだろう。
小学生の頃、プリントが整理できなかった。大きい緑のリュックにADHD気質特有の「オルガンプリント」でパンパン。比喩じゃなく山のようにある紙達を、家に置いておくこともできず毎日持ち歩いて学校と家を往復した。ガサガサ音鳴っていたろうなぁ。
今なら捨てる選択肢が容易に出てくるんだけど、小学生の僕にとってゴミ箱は、親のテリトリー。一気に捨てることが出来ず、2枚ずつ捨てていたこともあったけど面倒になり、途中で諦めた。
教科書もすぐなくなった。社会科のシリョーシュー(資料集)がどこかにいってしまって見当たらない。
明日授業で使うのに、隣の人に見せてもらうのは恥ずかしい。ないとも言い出せない。双子の兄のを借りる。
多動気質も、リュックの中にあるプリントも、シリョーシューも父親も、僕の手で握っているはずなのに、見えない力が働いて勝手にどっかに行く。アンコントローラブル。
子供の僕には、リコンもオバケも変わらない、急に現れたり消えたりする現象。それが怖い。
現象として認識は出来ているのに、操作感が無い、或いはほとんど無く僕に影響を与えるものは、分かりづらく僕を不安にし続ける。
年齢を重ねて、不安とお付き合いするようになった。
それが出来たのは、「大人のルール」を認知したからだと思う。
不安でい続けることも、それを解決すること行動を起こすことも、大人は自由。
どっちでも良い。選択の自由が与えられていて、それを選ぶことに他人が介在する余地は(ルール上)無い。
お金持ちでも貧乏でも幸せでも不幸せでも、自由。あなたが選択すること。「どうあっても良いけど、自分で選択して自分でやってね」。そうやって社会は回っているみたい。
そうやって考えていたら、一日が終わりそう。
今日はセントジョーンズワートのお茶を飲むことにする。