僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

平和な家庭

兄がやっているスパイスを買ってみた。

ラッサムというすっぱしょっぱい南インドのスープみたいなやつ。

トムヤムクンからエビ感を抜いて豆の味を入れた味。

https://minami-indo.shop/items/5ca71e5ec3a96732fc1822e1

↑ここから買えるから、興味のある方はぜひ。

 

今日は一日ダラダラしていた。

ベッドで漫画読んだり、TSUTAYAに行って立ち読みした後、帰ってきてから電子書籍の小説を読んでいたりした。

はあちゅうって言う人の、「言葉を使いこなして人生を変える」という本を読んだ。

 どういう文脈で書いていたか忘れたけど、「意見を持っていないことに無自覚」「考えるクセがない」という言葉は、何となくメモをした。

言葉を使いこなして人生を変える

言葉を使いこなして人生を変える

 

amazonnのレビューだと酷評されているようだけど、わりに楽しめた。

彼女の言葉に対する、異常なほどのこだわりは面白い。僕も、この感覚、どうやったら伝わるだろうって一日何回も考える。ほとんどが既に誰かが使い古している言い回しなことが95%だけど、残り5%の僥倖目指して思考をしている。

 

キルケゴールは幼少期、論理的思考の訓練を積まされていたらしい。父親から空想の旅の話をしろと言われて、それに整合性が求められる。

言葉一つに対しても、論駁されて辻褄が合うように言い直させられる。あぁ厳しい毎日。

 

彼女は執着している割に凡庸な表現が多くてきっとそれも自覚していると思う。そういう意味できっと、僕と感覚が近い人だなと思った。

 

昨日、東北に住んでいるという19歳の男性とチャットをした。

車の整備士になる専門学校に通っているらしい。マークⅡなど古めかしい角ばったものが好みらしく、車の話などで盛り上がった。

 

ランクルは昔のが格好良いよね、というと、そうだね。と返ってくる。

ミニクーパーの古い車好きでしょ、と問うたら、好きだねーと答える。

 

一区切りついたところで、あなたの家って平和そうだね、と冗談めかして聞いたら、そうだと。

偏見かもしれないけど、何の問題もない平和な家庭に育った人は、自分の意見を持っていないし、それに気が付いていない。このチャットで言うと、2人で成り立っている会話が一方的に語り掛け続けないと、続かない。

だったら辞めればいいじゃない、という話。けど、僕にとって会話は、お互いの価値観を共有する場。ここは同じだね、ここは違うね、ってやりたい。

僕の大学の教授は、ゼミナールを説明したシラバスに「ゼミナールは単に出席するだけでなく、参画することを求めます」と書いていた。

まさにそういうことだと思う。

参画をしない、それを自覚しないで、「聞くことに徹している」(という自覚も無い)役割は、僕の中では存在しない。

 

平和な家庭に育ったのは、素晴らしい。生活に何の文句も問題も無い時間が膨大に存在したんだろう。

僕にもはあちゅうさんにもあると思うのは、飢餓感。それがあるか無いか。

良い悪いじゃない。