僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

愛することはまだ早い

 

フロムの愛するということを読んだ。

 

愛するということ 新訳版

愛するということ 新訳版

 

 愛いうのは、与えられるものじゃなくて与えるというものだ、がフロムの言いたいことだと思う。

今の世の中では、ロマンティックラブが罷り通っているから、素敵なデートとかお洒落な恋人関係については沢山情報がある。

ロマンティックは素敵だと思う。けど、そこから家族になっていくスタート地点にするには乖離がありすぎるように思う。かくいう僕もロマンティックラブにほだされて、脳内を満たされて家族を持った。

恋が始まる時、人のIQは著しく下がるというのが研究結果としてあるらしい。すごくわかる気がする。好きになったら、他のことなんてどうでも良くなって周りが見えないどころか、自分が見えなくなる。

 

フロムの言うように愛は与えるものであるらしいから、愛を成立させるには一方的な受益者ではいられない。与えていると思っていても、受け取る側がそれをどう受け取るかっていう問題だから厄介。

何が言いたいかって、僕にフロムの言う愛はまだ早いのかなと思うって話。

与えていると思っていても、それは相手によっては通じない。人間と人間の関係性が成り立つのは、互酬性が大事だと思っている。誰かに何かをしたら、何かが返ってくる。そのレスポンスがその場でないと、これは受け取り拒否なんだなって思ってしまう。

そこが、僕の未熟なところ。きっと死ぬまで治らないと思う。

僕は恋しかしなくていいんだと思う。いわゆる本当の愛は今世では諦めようかと思う。

きっと今の瞬間も誰かの愛を受けていて、その受益者であると思う。けど、それが僕にはわからない。だから返せない。一方的な愛の贈り主だと思っていたら、一方的に受け取っていただけの人。ミイラ取りがミイラに。いやそれは違うか。

でもそういう入れ違いによって、愛が滞留して成り立たなくなるんだと思う。

 

自分ではこんなに繊細で、物事に敏感だと思っているのに、愛に関しては鈍感。

いや、貰っていることが分からないから、鈍感かどうかも分からないというのが実感。きっとそうなんだろうなってことしか言えない。

 

感情の起伏

感情の起伏が激しい方だと思って、30年以上生きている。

朝起きて嬉しい気分なら鼻歌を歌うし、幹線道路を歩きながらボヘミアンラプソディーも歌う。怒りたい時は怒るし、悲しい時は体全部を使って表現する。

それが普通だと思うし、内側から湧き出たものを表現するのが人間たる証だと思っている。

でも大人になって10年以上経って、どうやら日本では「感情は表すものじゃない」っていう価値観があるみたい。

 

なんでそんなに表現するの?そんなに寂しいの?みたいな、無言の圧力。

特に田舎に暮らす人に顕著。感情を表す人をダサいって揶揄する傾向。そういう表向きは平和ぶった人って、知らぬ間に柱の中身をボロボロにするシロアリみたいな人だと思う。

 

感情労働って言葉がある。介護とか医療職、教師など、人と関わって「感情を消費する」仕事の人達。感情を表現しない人達は、その感情労働に対してのフリーライダー。感情泥棒。

きっとお店でも本気のありがとうは言われないし、ナンパだってしないしされない。

予想外の嬉しいサービスなんてきっと受けられないと思う。だってつまんなそうな人に、幸せをあげるする人はいない。幸せそうな人だから、幸せを受け取ってもらえるだろうって人が動いてくれて発生するものだと思う。

 

フットサルで士気を上げようと声をだしても、聞こえているのか聞こえていないのか分からない人。結構いる。そういうタイプもいるし、各々のタイミングがあるよねって理解はしているけど、やっぱり積極的に関わろうとは思えない。

家族であれ、友人であれ僕は他人と関わるのが基本的にはストレスがかかる(そりゃそうだけど)。そこで消費された感情は、どこにいくんだろう。どこで還流されるんだろうって毎回思う。

 

いつどこで幸せを感じるんだろう。とか家庭環境が悪かったのか、とか色々沸き立つ。でも僕には分からんから、これ以上そんな人に対する思考はやめておく。

歳を取るのが怖い

カフェインは摂取したら、焦る気持ちが出てくるって誰かが言っていた。

今日もエスプレッソを飲んだら、焦燥感に駆られて仕方なかった。トイレが近くなるドキドキ感が影響しているのかなと思う。

そういえば、昨日の夜、今の精神性で10歳若かったらな、って思った。20歳。

直後に10年死ぬまでの時間が長くなるんだとしたら、人でいることに飽きそうだなって閃いて、やっぱいいやって思った。

今日もいつものように本屋に行ったんだけど、歩くのが億劫な時がある。これが、体の衰えだ。

前までは週6くらいで運動をしていたのが、今は週1くらい。大きくなっていた大胸筋はすっかり萎んだ。10キロくらいは走れていた脚力も酸素交換能力もなくなった。

何が言いたいかって、感情も身体も摩耗していい感じに軽くなってきているってこと。単純に考えると、心は感情の瑞々しさを失っているし、身体は衰えている。でも僕は、自分の未来を信じている。心は若々しさと老練さを両立させられると思っているし、弛んだ胸筋はもう一回ベンチプレスを始めれば良い。

 

そう、今日は歳をとることについて考えてみようと思った。

 

歳を重ねることが怖いって思うことが時々あった。「もう30歳なのに、まだ僕こんなんじゃん」って焦り由来。

このまま何も残さず死んでいくんじゃないかっていう不安。

ブラック企業とか、ひどい人など外的要因なら逃げられるけど、自分は地球の裏側に行ったって付いてくる。

1番怖いのは無力で居続けて、それを自覚し続けること。

歳をとることで経年劣化する見た目が気にならない訳じゃない。ほうれい線は深くなったし、笑うと目尻がクシャっとなっている。

対策として化粧水を塗っているし、アホ面して顔筋のトレーニングもしている。

身体が衰える辛さは耐えられるけど、心が無力なままでいるっていう未来への絶望感は、筆舌に尽くしがたい。

歳をとる怖さってこれだと思う。

 

でもそれって、空想のお話。ありもしない話を勝手に妄想して、独自に苛まれてる。

少なくとも僕はこれまで、何にも状況が変わらなかったことって無い。

そういう意味での信頼と、1番始めに書いたような、命が長くなるからいいやってくらいの明るい絶望感の狭間にいるのが楽なんじゃないか。

とりあえず腕立て伏せから再開しようか。

 

正しいってなんだ

 

昨日の夜、ブログを書いてTSUTAYAで本を読んでいた。

何冊か読んだのだけど、一番面白かったのは、 西田昌規さんの『自分の「異常性」に気づかない人たち:病識と認否の心理」

自分の「異常性」に気づかない人たち: 病識と否認の心理

自分の「異常性」に気づかない人たち: 病識と否認の心理

 

 精神科医である著者が、自分を病気だと感じ取れていない(いわゆる病識が無い)患者と向き合っていく体験談。

自らを病気だと捉えること、病識。それは、どこからどこまでが病気で~という最早、ありふれ過ぎている議論に当然なる。

だから悩ましい。本書にもあったケースだと、夫が不倫をしていると誇大妄想を吐き続ける妻が、診察を受けることになった。その後、実際にその夫は不倫をしていたという話があるらしい。まぁその訴える根拠とか、訴え方が常軌を逸していたのかな、とは思うけど。

 

この本を読んで、そもそも正しいってなんだろうって思ったので、今日はそれについて書く。

ただ、絶対的な正義とか、公正とは何かっていうことじゃなくて、あくまで日常を生きていくためのものとして書いたので、ご理解を。

 

結論は、正しさとは個人的なことであり、かつ社会的なことであって、移ろいゆく。もっとざっくり言うと、正しさで腹は膨れないよなぁってことになった。

 

この世で一番多用されている正しさは、数の論理、多数決。エビデンスが沢山あると安心しやすい。帰納法によるものは、ひっくり返すことが難しい。

ただ、このブログで正義論とか、アマルティア・センが言うケイパビリティの概念を持ち出そうとは思わない。

 

まず、正しさを考えるうえで、大切だと思うのは「個人の中にある正しさ」だと思う。

あくまでひとりひとりがどう考えるか大事、が僕のスタンスで、それを社会全体に求めようとか、それが絶対正しい!とは吹聴しない(ようにしている)。

だから、一般的に〇〇だから~〇〇した方が良い、というアドバイスは、正直に言って最初の5文字くらいで耳をふさぎたくなる。

社会がどうとか、正義がどうとか正しさがどうっていう前に、まず自分の考え方や在り方に対して、自信を持って自分に対して正しく居られることが必要だと思う。

 

もうひとつ大事な要素は、「正しさは変化するよね」ってこと。

家族が殺されたら、僕は犯人を恨むだろうし、同じ目に遭わせてやりたいって思うだろう。でも、普段は殺人犯にだって人権はあると思っているし、言い方は悪いけど「やむにやまれない事情」があったのだなって思う。

そう、その日起きた出来事とか、その日の体調とかその他諸々で変化する。

よく考えると、昨日と同じ日なんて一日も無いから、昨日と同じ正しさなんて原理的に言えば無い。昨日の正しさは今日の悪、みたいになる。

個人の中にある思考は、当然社会によって影響を受けて変化する。けれども、結局変化し続けるしかないし、それを自分が受け入れるしかないと思う。

 

正しさで飯を食おうとしたら大変だと思う。自分の中のことだけで大変なのに、世の中全体をカバーした正しさを考えて、しかもそれが日々変わる。アリの集団生活における正しさなら何となく想像つくけど、人間のは難しすぎる。だから僕は諦めた。

 

だから万人の正義なんて考えるだけ損をする。自分の正しさだけ持っていれば、とりあえずは生きていられる。それで良いんじゃないかって思っている。

1人寂しい夜は

昨日、フットサルがあった。Twitterにも書いたんだけど、ちょっとおどおどした大学生くらいの男性が参加していた。

終わり際、僕は「来週も来てね」と言った。そしたらなにやらもにょもにょ言う。そうするとすかさず同じチームでこのフットサルの主催をしている人が「いつでも来てね」と言った。

来週、と言われるよりいつでもと言われた方が、嬉しいと思う。というより負担にならない言い方だと思う。

僕を含めた考えすぎてしまう人達は、来週本当に来られなかった場合「悪いことしたかな、次行きたいけど行きづらいな」って感じる。

そんな人達にとって正解は「いつでも」だと思う。いつでも来てね、忘れないようにする。

 昨日、瀬戸内寂聴さんの「孤独を生ききる」を読んだ。

孤独を生ききる (光文社文庫)

孤独を生ききる (光文社文庫)

 

 タイトルにあるように、人は孤独であるということ。それを生きるのが人間の宿命であることが書いてあった。

 

僕も今、孤独である。だから今日のブログは孤独について考える。そしてそれが孤独な人のためになれば良い。

僕の家の周りは田んぼだらけ。この季節は田植えが始まっているから、カエルが無限に鳴いている。

カエルは日照りが続いたら干からびる。人も栄養がなくなったら死んじゃう。

そんな風なアンモラルなモラルが、人間で人間の孤独であるということだと坂口安吾が「文学のふるさと」で書いていた。

人間は徹底的に孤独な存在で、それが基本。同じベッドで寝たところで同じ夢は見られない。同床異夢。僕は他人と同じ布団で寝られない。

人間は、孤独な生き物。そう改めて書く必要もないくらいに厳然たる事実。

 

寂しい人は、まずそこがスタートだと思う。自分はもともと孤独なんだっていう気持ち。

寂しいって思うのは、きっと余裕があると思う。誰かに関わりたい、優しくしたいっていう思い。だから、それを発揮しに外に出れば良いと思う。

コンビニで店員さんにニコっとするでも良いし、工事現場の周りで警備をしている人に「ご苦労さまです」って言ってみるのも良いと思う。

僕はちょっと寂しい時、そうしてる。誰か困っていそうだったら、大丈夫ですかって声をかける。完全に自分のため。

おじいさんが店員さんに絡むのは寂しさから。店員と客だと断れないっていう保険付きだからね。良くも悪くも。

 

僕は、寂しくなりそうな時(そうでなくてもだけど)本を読む。

本はその人の考え方そのものが、精緻に記してある。だから知り合いと気を遣って話すよりよっぽど心が通じ合う気がする。昨日は瀬戸内寂聴さんと通じ合えていた。

僕は話が特に上手じゃないから、会話で通じあえたな、って中々思えない。一方的に書いてあることを、一方的に「めっちゃわかる」って感動して、一方的に著者に思いを馳せる。だから、1人じゃない。

 

ひとりだけど、ひとりじゃない。そんな気持ちが成り立つと楽だからおすすめ。僕はひとりだから、TSUTAYAに本を読みに行く。

ありのままの自分とは

昼間からTSUTAYAに行って本を読んでいた。

池谷裕二さんと中村うさぎさんの対談で進んでいく、脳の話。

車いすに乗った中村さんが、階段の近くまで行くと後ろに倒れるんじゃないか、とパニックになるらしい。でも実際は倒れていもいないし、倒れた経験もない。

体験してもいないことを、あたかも体験しかたのように恐怖して冷や汗をかいてしまうのはなぜだろうか。

自身が覚えてもいない、記憶を脳が引っ張り出してきて、体に恐怖として伝えるのだろうか、そんなことが書いてある。

 

脳はみんな病んでいる

脳はみんな病んでいる

 

 科学的な話だけだと飽きてしまいそうだけど、合間合間に中村さんの繊細な感性の質問が入っていて、「そう、その質問をしてほしかった!」となる。

 

脳は不思議。とある本で読んだ話で、スパコンやAIが素数が無限にあるということを「理解する」となると、膨大な時間がかかる。だけど、人間は、「そういうもの」として計算をしなくても理解ができる。

きっと、「1とそれ以外で割り切れない」という法則を敷衍化して「ないだろうな」と想像することができるのが、脳の機能なんだと思う。すごいよなぁ脳。

 

自分を自分として見ているのも、脳の働きで、「自分がこうありたい」とか「こうじゃなきゃ嫌!」というのも自分であって、脳の電気信号が届いている証拠。

そうやって考えた時、ありのままの自分って何だろうってふと思った。

僕のブログの最初は、「僕は何者なのか」という記事。まさにそれに対して自分に問うてる。「プログラマー」とか「役者」とか、そういう(素敵な)ラベルを張った自分を見てもらいたいという思いの表れだったと思う。

 

ありのままでいていいよ、とか自己受容という言葉は世の中に氾濫している。その中に僕が思う正解は、ざっと調べると見当たらない。

 

僕が思うありのままは、そう思ったまさにその時の自分そのもの。それに過去の自分もありのままだし、嘘を吐いてしまったのもありのままの自分。

 

ありのままの自分とは、今、丸椅子に腰かけてテーブルにパソコンを置いて「素敵な記事書けたらいいな」ってタイピングしている自分だと思う。

インターネットで検索してこのブログを読んでいるあなたは、そういう記事を読みたいと思っている自分。

それがありのままの正体だと思う。

 

 

ありのままが分からない=今の自分が嫌ってこととも近い。

自分のありのままはこれでいいのか?自分の本当の姿はちがうだろ!って、問いたくなる気持ちはもの凄く分かる。

過去の記事を漁ってもらえれば、苦しんでいる僕の様子が書いてあるから、読んでみてほしい。

でもよく考えると、笑顔で歌うアイドルだってトイレでいきむだろうし、優しく見えたあの人が捨てられた子犬を蹴っ飛ばすことだってある。

何が言いたいかって、人は一貫した存在じゃないよってこと。

今しんどい自分もいるし、過去に楽しかった自分もいる。両面どころか、無限に存在する。きっと自分の多面性を一番見てきたのは自分なはず。

 

一貫している人が、素敵に見えるのは理解できる。サッカー選手の中澤佑二が、油ものは一切口にしないとか、イチローが毎朝カレーを食べるとか。格好いい。

自分に戒めを課して、それを守る。厳格さ。憧れる。

考えたら、油もの食べないのって、周りからすると食事に誘いづらいだろうし、カレーを毎朝作らされてる奥さんは、しんどいかもしれない。ただ、スポーツ選手としては格好良いよね。たったそれだけの話。

 

一貫しているのは、自分がそこにいることだけであって、思考とか行動とかは状況に応じて変わるもの。それが通常。

他人から見た一貫性を自分に求め続けるのってしんどいよね。ぜひやめちゃおう。

 

 

 

 

生きるのがしんどい時

生きるのがしんどい時、僕は沢山ある。

そんな時どうするかを考えてみる。

 

しんどい時、人は往々にして思考が加速しすぎて飛躍している。

何か嫌なことがある→しんどい→死んでしまいたくなる

みたいに、しんどい原因は必ずあるのに考えて考えて、どうしようもできなくて、それが辛くて、それを感じる自分が嫌で大元である自分の命にまで考えが辿り着く。

テレビのコンセントを抜いちゃえば悪い映像は流れないって発想。

「しんどい」「死にたい」は、起きてしまった嫌なこととは別次元のことであって、極端にいうと関係が無い。

だから、一旦停止させよう。辛かった出来事を反芻するのも、飛躍しちゃう思考も。

僕は、そういう事態になったら寝ることにしている。全部捨てて寝る。

 

そうすれば思考は一旦止まって、奈落の底に自らを追い込む考えは少し和らぐ。

悪い映像を流すテレビは、待機状態にしよう。

寝られない人もいると思う。状況がそれを許さないとか、色々。

その寝られない状況と、死にたいくらいしんどい状況、どっちが優先されるだろうか。

僕はわからないけど、きっと死にたくなるくらいの気持ちになる以上に優先されることは無いと思う。

 

思考が発達している人が、思考を加速させやすい。思考を大事に思っているからこそ、死にたいとまで考えが及ぶ。

だからそう考えられている人は、すごく優秀な人だと思う。

思考が大事で、優秀な人だからこそしんどいし死にたくなる。だとすると、その大事な思考と優秀なその人自身を殺しちゃうのは、悲しい。

太宰治玉川上水に入水したのも、藤村操が華厳の滝に投身したのも、優秀がゆえ。

だから一旦止まろう。思考と体、優秀なあなた自身を労う意味でも、止まって良いんだと思う。

 

思考は、結論が「死ぬ」だと殆ど答えは出ない。多分自己防衛本能で、そう結論に至れないようになっているんだと思う。

グチャグチャした思考は、結論が出ないもので、真面目に取り組めば取り組むほど絡んだ糸は解けなくなってくる。だって結論が死ぬことなら、答えは出せないから。残るのは、思考に疲れてしまった体だけ。

取り組むだけ無駄なこと。穴を掘って、またその穴に掻いた土を入れる作業。終わりは永遠に来ない。

 

寝て、起きて、それでも考えちゃうなら僕と一緒に考えよう。

理解なんてできないし、話を聞けるかわからない。一緒に考えることしかできないけど、そんな方がいればツイッターでもなんでもいいんで連絡をください。