僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

ありのままの自分とは

昼間からTSUTAYAに行って本を読んでいた。

池谷裕二さんと中村うさぎさんの対談で進んでいく、脳の話。

車いすに乗った中村さんが、階段の近くまで行くと後ろに倒れるんじゃないか、とパニックになるらしい。でも実際は倒れていもいないし、倒れた経験もない。

体験してもいないことを、あたかも体験しかたのように恐怖して冷や汗をかいてしまうのはなぜだろうか。

自身が覚えてもいない、記憶を脳が引っ張り出してきて、体に恐怖として伝えるのだろうか、そんなことが書いてある。

 

脳はみんな病んでいる

脳はみんな病んでいる

 

 科学的な話だけだと飽きてしまいそうだけど、合間合間に中村さんの繊細な感性の質問が入っていて、「そう、その質問をしてほしかった!」となる。

 

脳は不思議。とある本で読んだ話で、スパコンやAIが素数が無限にあるということを「理解する」となると、膨大な時間がかかる。だけど、人間は、「そういうもの」として計算をしなくても理解ができる。

きっと、「1とそれ以外で割り切れない」という法則を敷衍化して「ないだろうな」と想像することができるのが、脳の機能なんだと思う。すごいよなぁ脳。

 

自分を自分として見ているのも、脳の働きで、「自分がこうありたい」とか「こうじゃなきゃ嫌!」というのも自分であって、脳の電気信号が届いている証拠。

そうやって考えた時、ありのままの自分って何だろうってふと思った。

僕のブログの最初は、「僕は何者なのか」という記事。まさにそれに対して自分に問うてる。「プログラマー」とか「役者」とか、そういう(素敵な)ラベルを張った自分を見てもらいたいという思いの表れだったと思う。

 

ありのままでいていいよ、とか自己受容という言葉は世の中に氾濫している。その中に僕が思う正解は、ざっと調べると見当たらない。

 

僕が思うありのままは、そう思ったまさにその時の自分そのもの。それに過去の自分もありのままだし、嘘を吐いてしまったのもありのままの自分。

 

ありのままの自分とは、今、丸椅子に腰かけてテーブルにパソコンを置いて「素敵な記事書けたらいいな」ってタイピングしている自分だと思う。

インターネットで検索してこのブログを読んでいるあなたは、そういう記事を読みたいと思っている自分。

それがありのままの正体だと思う。

 

 

ありのままが分からない=今の自分が嫌ってこととも近い。

自分のありのままはこれでいいのか?自分の本当の姿はちがうだろ!って、問いたくなる気持ちはもの凄く分かる。

過去の記事を漁ってもらえれば、苦しんでいる僕の様子が書いてあるから、読んでみてほしい。

でもよく考えると、笑顔で歌うアイドルだってトイレでいきむだろうし、優しく見えたあの人が捨てられた子犬を蹴っ飛ばすことだってある。

何が言いたいかって、人は一貫した存在じゃないよってこと。

今しんどい自分もいるし、過去に楽しかった自分もいる。両面どころか、無限に存在する。きっと自分の多面性を一番見てきたのは自分なはず。

 

一貫している人が、素敵に見えるのは理解できる。サッカー選手の中澤佑二が、油ものは一切口にしないとか、イチローが毎朝カレーを食べるとか。格好いい。

自分に戒めを課して、それを守る。厳格さ。憧れる。

考えたら、油もの食べないのって、周りからすると食事に誘いづらいだろうし、カレーを毎朝作らされてる奥さんは、しんどいかもしれない。ただ、スポーツ選手としては格好良いよね。たったそれだけの話。

 

一貫しているのは、自分がそこにいることだけであって、思考とか行動とかは状況に応じて変わるもの。それが通常。

他人から見た一貫性を自分に求め続けるのってしんどいよね。ぜひやめちゃおう。