僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

正しいってなんだ

 

昨日の夜、ブログを書いてTSUTAYAで本を読んでいた。

何冊か読んだのだけど、一番面白かったのは、 西田昌規さんの『自分の「異常性」に気づかない人たち:病識と認否の心理」

自分の「異常性」に気づかない人たち: 病識と否認の心理

自分の「異常性」に気づかない人たち: 病識と否認の心理

 

 精神科医である著者が、自分を病気だと感じ取れていない(いわゆる病識が無い)患者と向き合っていく体験談。

自らを病気だと捉えること、病識。それは、どこからどこまでが病気で~という最早、ありふれ過ぎている議論に当然なる。

だから悩ましい。本書にもあったケースだと、夫が不倫をしていると誇大妄想を吐き続ける妻が、診察を受けることになった。その後、実際にその夫は不倫をしていたという話があるらしい。まぁその訴える根拠とか、訴え方が常軌を逸していたのかな、とは思うけど。

 

この本を読んで、そもそも正しいってなんだろうって思ったので、今日はそれについて書く。

ただ、絶対的な正義とか、公正とは何かっていうことじゃなくて、あくまで日常を生きていくためのものとして書いたので、ご理解を。

 

結論は、正しさとは個人的なことであり、かつ社会的なことであって、移ろいゆく。もっとざっくり言うと、正しさで腹は膨れないよなぁってことになった。

 

この世で一番多用されている正しさは、数の論理、多数決。エビデンスが沢山あると安心しやすい。帰納法によるものは、ひっくり返すことが難しい。

ただ、このブログで正義論とか、アマルティア・センが言うケイパビリティの概念を持ち出そうとは思わない。

 

まず、正しさを考えるうえで、大切だと思うのは「個人の中にある正しさ」だと思う。

あくまでひとりひとりがどう考えるか大事、が僕のスタンスで、それを社会全体に求めようとか、それが絶対正しい!とは吹聴しない(ようにしている)。

だから、一般的に〇〇だから~〇〇した方が良い、というアドバイスは、正直に言って最初の5文字くらいで耳をふさぎたくなる。

社会がどうとか、正義がどうとか正しさがどうっていう前に、まず自分の考え方や在り方に対して、自信を持って自分に対して正しく居られることが必要だと思う。

 

もうひとつ大事な要素は、「正しさは変化するよね」ってこと。

家族が殺されたら、僕は犯人を恨むだろうし、同じ目に遭わせてやりたいって思うだろう。でも、普段は殺人犯にだって人権はあると思っているし、言い方は悪いけど「やむにやまれない事情」があったのだなって思う。

そう、その日起きた出来事とか、その日の体調とかその他諸々で変化する。

よく考えると、昨日と同じ日なんて一日も無いから、昨日と同じ正しさなんて原理的に言えば無い。昨日の正しさは今日の悪、みたいになる。

個人の中にある思考は、当然社会によって影響を受けて変化する。けれども、結局変化し続けるしかないし、それを自分が受け入れるしかないと思う。

 

正しさで飯を食おうとしたら大変だと思う。自分の中のことだけで大変なのに、世の中全体をカバーした正しさを考えて、しかもそれが日々変わる。アリの集団生活における正しさなら何となく想像つくけど、人間のは難しすぎる。だから僕は諦めた。

 

だから万人の正義なんて考えるだけ損をする。自分の正しさだけ持っていれば、とりあえずは生きていられる。それで良いんじゃないかって思っている。