僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

ダブルバインド

関節が鳴りやすい体質。右手の人差し指の第一関節は永遠にゴリゴリ言うし、肩は回すと外れそうな音がする。亜脱臼なのか疑っているけど今のところ生活に支障が無い。指は小学生の頃ドッチボールで突き指をしたのが原因かなと思っている。

関節の中にある気泡が、曲げたことでかかる圧力で破裂して音がするらしい。背中を動かさず首を前に倒すと恐ろしい音がする。チェーン状に連なった頚椎が、自重と曲げる動作によって同時に逆方向に引っ張られて、関節内に圧力をかけているんだろう。重力と筋力。同時に逆方向の力が加わると中身にダメージが加わる。

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1.はしがき

昨日のフットサルで手の小指を脱臼した人がいた。手でボールを弾いた時に痛めた様子。最初はみぞおちにヒットしちゃったかなと心配したけど、様子がおかしい。小指が逆の方を向いている。一旦試合終了。いつも手首にテーピングをしている茶髪の彼が寄ってきて「骨折なら腫れる。脱臼なら~」と講釈を垂れる。今必要なのは夜間に行ける病院がどこにあるかで、怪我履歴じゃない。心配するのを表向きにした「俺だって怪我してきてんだよ」は誰に響くと思ったのか。奇跡が起きて●●さん怪我めっちゃしてるんですね!と言われたとしてニコニコ自尊心を高められるのか。

 

2.ダブルバインド

ダブルバインド。二重拘束。その多くは両者が矛盾した命令。斉藤環さんが足を踏んで褒めるの例えのように、縛られた相手はどうすることもできない。先の例は「心配と虚栄心」のダブルバインドで、負傷した彼は相手にしていなかった。よりも、できなかったんだと思う。

選択することって難しい。両方を取りたい人情。高校に進学する時は偏差値という明確な数字。大学を選ぶのも偏差値。割符状態だから、噛み合うか合わないか。機械的で情緒や感情はひとつも要らない。ちょうど薄暗い大学生がアルバイトをする居酒屋で靴をしまうシステム。墨で書かれた「弐十参」が自分のナンバーなら23を捜して入れるだけ。僕のした進学は選択じゃなくて当てはめただけ。もし美術と料理を同じくらい大学でしたかったとしたら、選ぶのはやはり難しかっただろう。「大学」という範囲内では確実に2者択一になってどちらかを選ぶのは、どちらか一方を目の前から消滅させちゃう。最近よく話題になるトロッコの思考実験に近い。どう考えても、どちらにするにしても、一方を「ゼロ」にする選択は難しい。もし美術と料理、どちらも好きだったら美術の大学に進学して、料理を放課後にやる選択肢もある。どちらもやってみたら、一方は脱落するかもしれない。両方やる程の体力が無いせいかもしれないし、やってみたらそれ程執着するものじゃなかったかもしれない。結果が出ないとかも嫌になる遠因。それは否定するものじゃなくて、その人の「好き」が洗練化されていく過程だと思う。好きも嫌いも、何事であっても物事が体に馴染んでいくのは心地がよい。

ふたつが同時に、かつ矛盾した命令であった時、人は思考が止まる。1人の人から2つ(以上)という場合もそうだし、相手からひとつ、自分からひとつで矛盾する場合もある。上司から「業績を上げろ」、と「残業はするな」を同時に指示されたらいきなり従うのは難しく、どちらに従えばいいのか分からず、思考の停止を招く。(この例だとどちらもなんだろうけど)同様にマイルールと相反する従うべき他人からの指示も、停止に陥りやすい。「構ってよと「放っておいて」は、誰しも難渋する。いつそのスイッチが切り替わったのか分からないからね。

ダブルバインドでストレスを与えうる顕著な例は、親子関係。大事だよと言葉では言われているはずなのに、どうにも愛を満たしてもらえない。これが矛盾の元締めで、そこからどんどん下ろされていく。「愛されているはずなのに、何で家に居ないの」とか。僕の育った家は、言葉がアクティブに飛び交う家だった。母は昔ながらのスピリチュアル好き。その情報を仕入れているからかのは分からないけど、愛を表現する言葉が沢山並べられていたと思う。夜寝る前には「今日もありがとう」と必ず言ってくれたし、遅刻して焦っている時には「遅刻しても死にはしないんだから気を付けて」と添えてくれる。ただ、母子家庭とか、母の育った家庭、とか矛盾の遠因となる事象が未解決にみっちり詰まっている。いつ食べるのか分からないタラのフライを詰め込みすぎた、もったいないを和らげるためのフリーザーは適切な温度管理をしなくなるように、愛の言葉も管理がなされなければ、常に愛の言葉通りとはならない。子供の頃の僕は、こんなに冷静に観察できるはずが無く、脳内を駆け巡るのは2つの相反する矛盾した言葉。子供にはどうしようもできない。

付言すると、このダブルバインドに更なる代理業者がいた。矛盾した言動を誰かが代弁する。愛しているからこそ強烈に。思考停止が深まっていったと思う。

 

3.言葉と態度

言動が一致しないと非難されやすい。言葉と行動。大人の世界観を一言で現す「言動の一致」。「俺は将来ファイブマンになって悪者を倒すんだ」は、ほぼ実現不可能な絵空事で真逆の様に見える。ただ子供の世界では指弾されない。結局のところ、一致しているかどうかは、過去か未来のことであって確かめようが無い。なのでその尺度は本当に信じているかどうかであるように思う。おじさんが「ファイブマンになる」と真顔で言ったら危ないけど、それらしいことをそれらしい顔で言えば、その場においては嘘にはならない。

ダブルバインドにおいても、言動の一致がカギを握る。もう言うまでもないことかもしないけど、愛していると言うのに、愛していない行動。それがストレスを発生させる。子供にとっては命の危機。どっちを信じていいんだろう。「無」は「無」そのものから生まれるんじゃなくて、あったものが無くなって「無」となる。心の中に空洞があるような気がしているのは、きっと愛されていると思っても、矛盾した言動で取り払われるからだと思う。僕もその時のことを説明しろと言われてもできない。何となく記憶と思考を繋ぎ合わせるしかない。

紐を解す

手指が固いことに気が付いた。元々左手の人差し指の付け根にガングリオンという皮膚下に出来るできものがあり、指を深く曲げると痛い。そのせいもあるけどぎゅっとつよく手を握りしめられない。指を折りたたんで小さくすることが出来ない。

ガングリオンという名前、面白いと思う。僕はカタカナの名称を覚えるのが非常に苦手。これを覚えるまでに100回くらい聞いてやっと覚えられた。この間教えてもらった五本指のスポーツシューズの名前はもう思い出せない。ヴィンセント?ヴィスト?みたいな感じだったと思う。カタカナを覚える時期に小学校を休んだか、カタカナを支配している脳の分野が機能を停止している気がする。

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1.はしがき

不器用で面倒臭がりである。部屋履きにしているジャージの紐は、毎度あるべき場所から抜け落ちて、自分では入れられず誰かに入れてもらう。未だに狭いあの穴の中を推進力を持たない紐がどうやって日の出を見ているのか理解していない。

以前行った個人経営の自転車屋では、愛されていない僕のクロスバイクを見て「触りたくない」とお叱りを受けた。グリップはねちょねちょ。サドルには破れがあればそう言われても仕方ない。

すぐ絡まる白いイヤホンは、絡まっていることが普通。もう丸まったまま使う。それか使わないで音を小さくして動画を見る。思いついて8の字巻きをしてみても既にクセの付いた電線には通用しない。放っておいたら意志を持つ生き物のようにぐねぐねと勝手に絡まりだす。ケーブル怖い。

 

2.雨降って

昔、マフラーを編んだことがある。灰色の毛糸を使って冬休みの自由研究。祖母に教えてもらって始めた。学校帰り祖母の家に行って習っていて、毛糸が絡まった。手を出されてしまう。僕も「やりたいんならいいよ」の傲岸な態度で自ら解かない。マフラー自体も僕が寝ている間に3分の1くらい編んでいた。出来上がったものは、担任の「マフラーは編むのが大変」という一存で優秀な研究のひとつとして祀り上げられた。

絡まるまで放置して、解す作業は苦手というのは人付き合いにおいても顕著に出ている気がする。絡まり始めたら、もう面倒になってそもそも付き合いをやめてしまう。熊代享さんの「認められたい」では認められるためのメソッドは、人付き合いで「雨降って地固まる」的な体験をしていくことが必要と書いていた。それが遠回りに見えるけどそうしかないと言っていた。全くの同意。僕は雲が見えてきたらすぐに家に帰って、雨を受けいないようにしている(た)気がする。

 

認められたい

認められたい

 

 最近、一個だけ絡まったものを解す作業を出来た気がする。僕と同じようなメンタルの弱そうな目をした大柄な男。その人とケンカになりかけたんだけど、お互い我慢と納得の狭間を行き来してご破算になるのを避けた。まさに雨降って地固まる。なりかけたケンカが無ければ、こんなに大事に思っていたなんて感じられない。

ケンカは密接になればなるほど簡単に起こる。大事にしているものの違いやその言い方。お互いの機嫌。甘えとか慣れ。今回の場合もそうやって起きた。僕の琴線に触れた言葉がどういう意味なのか、聞いてくれた。だから僕もそれをやり返した。完璧には納得はできない。けど違いがあるということに対しては納得ができた。そんなやり取り。そんなやり取りは、時間は無限にかかるし、さっきまでの自分がどういう感情で言葉を発していたのかひとつひとつ相手に伝わるように説明する。どうにかして自分が格好悪くないように取り繕おうと試みるけど、それは結局時間の浪費を招く。思ったことを思ったままに、でもケンカ腰じゃなく。そんな風にしないと解けない。

 

3.「誰が言ったか」フィルター

日本人は「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」に重きを置いている民族だと言う。僕の教授の師匠に当たる人の本をゼミの課題にしたことがある。その本は彼の研究人生の総論みたいな本。新しいことや言いたいでなく、俺はこんなことをしてきたんだ、すごいだろ、そうだろ、という内容。要約するのに苦労した。全ては過去の著作を読んでね、で事足りる。教授は内容じゃなく誰が書いたか、で文献を選んだんだろう。新進気鋭の学者が言う切れ味鋭い指摘よりも東大の教授が言った普通のことが評価される。そんな風に研究は進んでいる。「誰が言ったか」は、僕ら一般人の中でも使い倒されていて、その文化はどんな集団であれ強度の差はあれど適用されている。フットサルでも僕が言う「プレスかけろ」より上手な人の方が重みがあるように感じる。全く同じタイミング、言葉の選び方だとしても効き目が違う。

こんなネガティブに感じる文化だとしても、日本にいて日本人と付き合うのであればその流れを汲まずにいられない。ポジティブに考えると、その「選ばれし人」になれば何を言っても大丈夫。そうなる。そうなりたい。もしそうであれば、まず自分が「この人とは大抵のことがあろうとお付き合いをしていく」と決めたとしたら、どんな言葉であれ受け入れることが前提。そういう決め打ちで人と付き合うと、ひとつひとつの言葉に自分が選別をしないで済む。どんな言葉もポジティブに変換する。そうすると相手も自分を受け入れてくる。そんな風に人は出来ていると思う。

もし受け入れられない言葉や態度が相手から出てきたとしたら、選別するんじゃくてどういう経緯で思考回路で出てきたのか、紐解いていこう。それが雨降って地固まる。全員にやらなくていいはず。人付き合いは多ければ多い程良いことはあるかもしれないけど、いきなりは困難。コミュニケーションモンスターに全ての人がなれる訳じゃない。自分が付き合おうと決めた人と、必ず付き合っていく。それが大事。

覚悟はいつもゆるやかに

4日間ブログをさぼってみた。文章を書くということと、行動をすること。どちらも行動なのに筆を進めるのはどうしても内省が伴う。「心の言語化」はほとんど心のしんどい部分を見つめる作業で、心を静かで落ち着ける場所に物理的にも精神的にも留めておく必要がある。それはほぼ「行動すること」との対義語となる。今の僕はうじうじしている時間はどうやら無い。

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1.はしがき

都会に行ってきた。品川と、山梨の県境とでは随分いる人が違う。前者はリュックに仕立ての綺麗なワイシャツにリュックを背負っている、髪をジェルで立てているビジネスマン。派手なワンピースに茶色の髪の毛をした女性。自己主張がある。ビジネスをする人、美しさ売りにしている人、そういう訴えを体からむんむんと発していながら、さもそれが当たりまえかのように電車に乗っている。後者は「何者でもない」それ自体が自分。何者でもなくても、どう見られていても、それでいいって思っている。服も髪の毛にも手はなるべく加えない。自然のままが美しい。電車に俯いて座っている彼らの思考を集約して約分するとこういう言葉になりそう。

オレンジラインが引いてある電車の中に、沢山の人がいる。ひとりひとりになんて価値は見いだせないけど、どの人も絶対におぎゃーと生まれてきて、殆どの人が学校に行って、殆どの人が仕事をして紆余曲折、七転八倒この電車に今日も辿り着いているらしい。みんなどうやってここにいることにしたんだろうって思う。「生まれも育ちも東京でぃ」。「フツーに大学出てシューカツして東京の会社にいます」。そんな感じだろうか。どうやって生まれて、どうやって東京にいて、どうやってこの電車に乗っているんだろう。気になっていた。

 

2.ホームパーティーは開催される

誰しもが今そこにいること、そこで働いているかなんて、確固たる理由は無いんだと思う。「結婚をしてこの土地に来ているんです」。なんてのは最もらしい理由だけど、よく考えると大したことじゃない。夫婦は同居が要件では無いし、どちらかの処に行く必要も良く考えるとあんまり無い。だけど皆決めている。人生の振り子を対極に動かすような重い重い決断も。「夫の住む場所に私は住んで、家で炊事洗濯掃除をして、ゆくゆくは子供を産んで、ママ友と仲良くして・・・」なんて言う想像をしながらすんなりと。その決定は、決めようとして決めるんじゃない。既に自分の頭の中で決まった事項をただ処理するだけ。「もうお前は死んでいる状態」。いや、「もう私はママ友とホームパーティをしている」状態。

ママ友とホームパーティをすることを決めるのに覚悟はいるだろうか。僕は東京に用を足すのを決めるのにも、ウロウロ部屋を徘徊し、お土産のインスタントコーヒーを飲んで気を紛らわせて、それでも駄目。家を出てカフェでようやく行く手段を確保した。それだけ間に緩衝材を入れてみても、バスの予約もホテルの予約も日にちが全部間違っていた。

家を片付ける覚悟はいるかもしれない。いや、便利屋に頼んだっていい。美味しい料理を作る覚悟か。それもピザなんかを数枚頼んでワインと供すれば何てこと無い。決められる。どうやったって決まるし、決めさえすれば地球にインデペンデンスデイがやってこない限りどうやったってホームパーティは開催される。

 

3.崖ジャンプ

子供がそろそろ産まれそうな夫婦がいる。妻は自然色の服に大きいお腹に手を添えている。夫は「夜もあんまり出かけられなくなるから」と産まれた後のことを何にでも関連付けて考える。この夫婦は子供を持つことを相をも沢山したと思う。でもそれはタイミングの問題。何歳までに、とか夫の稼ぎで大丈夫か、とかそういう話。命とは、子育てとは、ついこの間まで子供だった自分らに子供が育てられるのか。そういうそもそも論じゃなく、前提が子供ありき。想像だけどね。

僕は子供を持つか持たないか、考えたことがある。結婚してからも何度も自分に問うたし、命に対しての責任を取れるのか煩悶した時間も短くない。結局答えは出ないまま離れることとなって気が付いた。自分に問うている時点で、もう違うんだと。生きるか死ぬか、赤か黒か、半か丁か両極の答えがある問いをしている時点でその人がいる場所は崖っぷち。どっちを選ぶにしても人生を投げ打つ覚悟が要る。子供を持つことに人生を投げ打つ覚悟が必要なんじゃなくて、そのどっちか問うている時点で人生を投げ打つような形になっている、ということ。「崖ジャンプ」は覚悟でも選択でも無く、投身。飛ぶか飛ばないか迷う時点で身投げの構造。

「崖ジャンプ」を回避するには、その選択肢の答えが、その人のパーソナルなものとなるまで刷り込む必要がある。これを言語化すると恐ろしいけど、実際のところありふれている。「結婚したら子供は持つもの」「お年寄りに席は譲ろう」「男は強い」。そんなことどちらかなんて思考せずとも、悩まなくともどっちにするか決まっている。判断する余地が無い。

先述の夫婦は「夫婦は子供を持つもの」という前提で成り立っているんだろう。どちらかじゃない。持つ、という暗黙の合意のもとの相談。暗黙の了解は成り立ってさえいれば、途轍もなく楽。どちらの親も、子供を持つことに対して微塵も疑問を持たずに彼らを育てているから、その文化が体に染み込んでいる。考えずとも出てくる正拳突きみたいに思考の型がある。

 

4.ゆるやか

宇宙の果てにいて、右か左どっちに行くなんて判断ができない。どこに何があるかも分からないし、行き着く先があるのかすらも見えていない。同じような理不尽が人の決断に際して起きる。それは決められない。決めなくていい。理不尽だって、訴えていい。二者択一で問われても、どっちを選ぶことも出来ない選択だって選択なはず。何かしら入っている冷蔵庫があって、鍋とかも多分あるけど、A定食にする?B定食にする?って割烹着のおばちゃんに聞かれているのと一緒。わかんない。

どちらの選択にしたとしても納得できる状態でないと選択とは言えない。子供の例えだと、持つことを選んだとしても、持たないことを選んだとしても未来は幸せそうだなって思って選択する。

そもそも人の納得することは、時間や労力がかかる。きっと先述の夫婦は「子供は持つもの」という考えを親が背中でお金で労力で示し続けていたんだと思う。その蓄積が文化と呼ばれているもの。納得も文化も、ゆるやかにこつこつと培われてきている。あなたは大事なんだって示し続けて、それを長い間、継続できるってことは無理しているんじゃないって子供に刷り込ませているから、自分達も大事に出来るって自然と思える。それが彼らの選択の根拠だろう。

どっちであっても納得できなくちゃいけない。もし覚悟するしかないのなら、玉砕覚悟じゃなく、生き続ける覚悟しか無い。

確かめて大きくなろう

寒い。冬はまだ忍んでいていいはずなのに、足音をどたどたさせて近づいてきている。このまま冬になったとしたら長野県はロシアの仲間入りだろう。そんなはずは無いから、もう1回か2回は暑くなる。

今日は清濁併せ飲むってを考えてみた。大人の条件のひとつだろうし、恐らくイケてるおじさんの重要な要素。人を貴賤で判断する世の中なんだけど、外側の美しさはどうであっても、それが自分に響くかどうかで判断をする生き方。そんなことを書く。

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このかぼちゃだって、見た目はグロテスクだけどもしかすると中身は絶品かもしれない。その逆だってある。

 

1.はしがき

朝から野球をしてきた。千曲川沿いにある小さな野球グラウンド。入り組んだ場所にあり迷ったので、柴犬を散歩させているおばあさんに聞いたら「土手のところ」と教えてくれた。雨ならスタックしそうな道をバイクを斜めにして入ったら、キリスト教徒のバッチをした白い肌に黄金色の髪の毛をした彼が手を振っていた。

2週間前、夜道を歩いていたら自転車に乗った2人に声を掛けられた。「神を信じますか」。スーツを着ていた白人の男性は18歳らしい。学校を休んで宣教師をやっているのだと。ラインを教えて欲しいと彼は言う。いつもなら断るのだけど、頭の中で清濁併せ呑むという言葉が浮かんだ。充電の持たない携帯電話を出して交換する。それからあれやこれやとやり取りをして野球場まで来ていた。

 

2.起きたことから判断する他ない

サッカー選手の内田篤人は自分の目で見たものしか信じないというタイプらしい。ベビーフェイスなのに内面は男らしいってモテるよね。実際のところ、世の中に出回る情報は数がありすぎて「目で見たものしか信じない」とはならないと思うけど、魅力的に感じる。きっと芯が強いとか、自分を持っていると呼ばれる類のもの。

色々な属性や縛りがある世の中だと思う。男だから、女だから。スクールオブロックの校長は真面目そうだからヘイトされていると訴えていたように、その人を形作るものから人は自由になれない。真面目だと一度思われたらくねくねダンスを踊れば嘲笑の的になって色恋沙汰とは縁遠くなる。そんな決め打ちの印象みたいなものから人は中々自由になれない。ほとんどの人がそういう思考回路で動いているし、僕だってそのうちの一人。そうなんだけど、結局その人と会った瞬間に自分がどう思うか。その人が何を話すか、何をするか。「起きたこと」を自分の目で見るしかない。と思っている。

噂話って楽しい。いない人のことを好き放題言っても誰にもやり返されない。吐き出す相手がターゲットを知っていたら殊の外快感が伴う。楽しいんだけど、実際は「その時」「その場所で」「その人の目で見て」を「その人の言葉で変換して」。自分の前に噂として生産されるまでに数多くの工程を踏む。高級なブルーマウンテンを南米から運んできて国内で粉末にして更に加工してインスタントコーヒーにして、それを薄暗くて汚い喫茶店の老婆がテーブルの上にドンと置いたら、それはブルーマウンテンと名前の付いた他のものだと思う。奇跡に奇跡が重なってブルーマウンテンらしさが保たれているかもしれないけれど、それすらも確かめる術が無い。何が言いたいかって、見ていないものはもう別のものだよね、ということ。今の話で言うと、噂話はどうやったってネタになっている当人の原型を留めない。

 

3.確かめるしかない

前節では他人の話は他人の話であって自分の目で見た訳じゃないよね、と書いた。

はしがきで書いた「清濁併せのむ」は、自分で確かめるとも似通っていると思う。真っ暗の中で「神は~」と声を掛けてくる外国人は一般論で考えると無視すべき。僕のアパートの人は殆どが居留守を使って避けていた。だけど自分の中にある「外国人怖い」価値観って誰が作ったんだろうって疑問。それを自分で確かめるしかない。怖いかもしれないし、優しいかもしれない。命まで取られることは恐らく無い。身長体重は相手が上。僕の方が俊敏そうさはある。不意打ちじゃない限りなんとかなる。

これは僕だけなのかもしれないけど、世の中にある「所謂当たり前」を自分で確かめたい欲望がある。ヒロイズムだろうし自分が世界の中心おじさん。「確かめる」が良い生き方なのか、「ヒロイズムゆえの確かめざるを得ない」をどうにかして肯定的に捉えようとしているのか、ここでは判断が付かないので捨て置くことにする。

その「確かめる」がもたらす作用が、器の大きさや許容量と言われるものを大きくすると思う。色んな人がいるし、色んな団体がある。ETじゃないから自転車では月に行けないように、いきなり全てを知ろうとしても永遠に知り得ることはできない。だから、まず見えているところから。誘ってくれたものから。知ること、確かめることをする。そうすると何か自分が大きく強くなったような気になる。妄想なんだけど、自信のほとんどは妄想からできている。妄想を強化するのが自信かもしれない。

何でも良くはないけど、手近なところから、優しそうな人がいそうなところから始めるのが器を広げる一歩かもしれない。

 

 

分からない分からない

空気感ってあると思っている。その場の空気感。そこにある物や人の表情、窒素や二酸化炭素の割合、掃除されているかどうかなどを全部をひっくるめていい感じなのか悪い感じなのか判断する言葉。何となく良い、というよりも沢山の情報を処理して答えだけが頭に浮かんでくるような使われ方をするのが空気感。面白いのが、その場所を構成している全ての見え得るものが作っているはずなのに、お香を焚いて誤魔化したりする。人はすごくいい加減。水が不味いからってクエン酸を足して美味しくはならない。

ただ、空気と同様に「見えない」「分からない」ことってある。当たり前に見ているアダルトビデオも盲目の人は見たことが無い。ミョウガの美味しさが分からない人は今のところ分からない。僕は隣の家の人がいつ寝たのかが分からない。確かめるには犯罪をするしかない。そんな「見えない」や「分からない」について考えてみる。

実は「分からない」って普遍的。この世で一番多くの人が知らずに始動させている概念はもしかすると「分からない」かもしれない。

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1.はしがき

小説「名も無き毒」を読んでいる。宮部みゆきさんの小説はいつも面白い。普通っぽい人が普通に事件を解決してしまう。関わることも、解決することもそれが自然かのように。まさか僕だって望んでした結婚が、まさか地獄の底を舐めるようなことになるとは思っていなかった。未来は分からない。恐らく溶岩の形をしているであろう「底」を舐めている間にも、世界は同様にのっぺり存在していて、そこに置かれた僕はカレーに入れる細い人参の値段で悩んでいる。更に明日の食事はどうしようか、惣菜は買うべきか、明後日は何をしているんだって思考して脳内が蕩けそうになって、いかんいかん。そっちに引き込まれるな。と顔をぶんぶんする。分からないことは分からない。見えないものは見えない。それがルールなんだよと思いだした。

 

 2.分からないことは分からない

夏が終わりそうで風が乾燥している。僕の皮膚は乾燥に敏感。すぐエマージンシーを発信してご主人の僕を困らせる。顔も背中も張り付いた感覚。秋の色は茶色だと思う。栗や紅葉がそうイメージさせているんだろうけど、秋の空は僕の目に茶色に映る。それをどう説明したってパチンコ屋の交通整理をしているおじさんには伝わらない。そう、分からないし分かれない。

分からないことは、殆ど見えていないと同義で、その存在を把握することすら難しい。存在を把握することが出来たとしたら、それは「分かっている」に限りなく近い。

僕はフットサルについて世界の上位5%に入る程詳しいはず。詳しい人の中で詳しいのでなく知らない人が殆ど。フットサル独特のルール「第2PK」を聞いたことが無い人が90%以上だろうし、あとの5%は知っていたとしても聞いたことがある程度。

「知らないことを知っている」ことを確かめることはできるだろうか。「第2PK」を知らないことを知っている?という質問は、世の中で楽しまれている会話の体裁をなさない。合コンだったら女子が外へ目配せをし始めちゃう。鎖国中の日本国民は台湾を近い国だと知らなかったと思う。グアテマラを遠い国だということも知らなかったと思う。知らないという類別では同じで、近かろうと遠かろうとその人にとっては変わりが無い。宇宙を漂うスペースデブリに刻まれている悪戯書きも、日本に一番近い台湾の首都の名前もいっしょくた。

 

3.当たり前

人は自分の出来ることを知ることを大人になると言うと思う。その逆、自分は何でもできるが子供。どちらが良いでは無い。

高級なお寿司屋さんではサーモンは食べられない。だから出入りするおじさん達は出されない限りは頼まない。トリトンのサーモンがいくら美味しかろうと、回らないお寿司屋さんでは出てこない。食べたいよねサーモン。父親は「無いですよね」と丁寧に聞いて、「無いです」と 膠も無く突っぱねられていた。よくよく考えるとむしゃくしゃする。回転寿司のCMで「トラウトサーモン!!」としきりに宣伝しているのに、いざ寿司屋に行くと当たり前のように断られる。しきたりや慣例。知っていて当たり前。

犯罪は駄目、まぁそう。マナー違反は駄目。うん。でもローカルルールやその場所でしか通じないやつはその場所で当たり前かもしれないけど、その場所にいない人からすると分かることができない。

 

4.分からないこと自体を分かろう

「分からない」について延々書いてきた。例えは幾らだしても尽きない。昨日会ったパーマの彼が何であんなに眉毛を細くしているのか分からないし、太ったあいつが何で腕にテーピングをするのかも分からない。考えても考えても予想しか出来ない。答えは其の人の胸の中にある。もしその「分からない」が赤と青のボタンどちらかを押すと爆発するっていうルパンのシーンだったら、「なんで眉毛細いの」って迷わず聞いた方が良い。明らかに分からないから、分からないって聞いた方が命が助かる。もし、どうでもいいなら聞かない。わかんなーい。僕ならしなーい。って捨て置く。その基準は自分にとって幸せになるか。命がかかっていたらそりゃ聞くべき。聞かないと仕事がすすまないのなら聞くべき。だって分からないは、無数にあって分かっていることよりも明らかに分からない(であろう)ことの方が世の中に多い。その構造を分かると、「分からない」ことに自信が持てる。ほとんどのことを分からないから!絶対!!ほんとに何も分からないし、知らないから!!安心して!!分からないことを分かったり、知らないことを知ったらめっちゃ楽。分からないし知らないよ、何にも。

東京気遣いレスポンス

起きたら体がキンキンに冷えていた。薄暗い冷蔵庫に転がっている鶏肉みたいに一晩中体勢を変えていない。ベッドの冷えているところを探してゴロゴロするのが体温の高い人で、低い人は逆らしい。

外から眩しい日差しが入ってきているのに、レースカーテンを揺らしてる外気は冷たい。学生だったら夏服と冬服で迷う気温。衣替えの季節は毎度ドキドキする。真っ黒な学ランなのが僕だけだったらどうしよう、長袖似合ってないって思われないかなっていう自意識過剰さが未だに残った緊張。

白い長袖のシャツを羽織る。夏になると「やっぱりTシャツはいいよな~」って毎年思うんだけど、長袖を着て鏡を見ると「長袖も悪くない」って思い直す。毎年恒例の裏切られ。

外に出てみると皆半袖半ズボンで夏と同じ服装。スリッパ履きで、ぺらっとしたワンピースの彼女の肩を抱いたお兄さんが闊歩している。分かっていたけど、厚着したくなるのは僕の体温が下がっているから。カフェの店員も皆半袖。可愛く化粧をして、いらっしゃいませと消耗の少ない声を出している。

恐らく風邪を引いている。いくら9月とはいえ長袖シャツにパーカーを着ているのはおかしい。まぁ仕方のないこと。

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1.白い手提げバック

月曜日、部屋を探しに東京へ行ってきた。ちょうど台風が直撃した日。天気予報を見たら昼頃には大丈夫そうなので予定通り決行。出発は朝7時過ぎのバス。前日は緊張して眠れず荷造りを深夜3時にゴソゴソやった。以前失神した時は、睡眠不足&飲まず食わず&長時間の立位という、脳に血液が行き渡らない3要素が全て整っていた。今回は倒れる訳にはいかない。何とか脳への血液と血流を確保しようと思い、無理やり前日の残りを口に入れてから、家を出る。

少々の雨。バイクは静かにエンジンはかからず、いつも通りカラカラブォーンと言って早朝の住宅街の皆様に迷惑をかけた。15分くらいでインターチェンジに到着する。

バスに乗り込むと大学生くらいの男性が隣の席で寝ていて、僕の席であろう椅子に白い手提げバックを置いている。小さい声で「すみませーん」と言うと何も言わずパッとそれを取りまた寝始めた。隣に来るとか乗り場がまだあるとか把握してないよな。そうだよね。2回の休憩を挟んでも隣の彼は4時間余りこんこんと寝続けている。僕はハーフ昼夜逆転からの自律神経が少々狂いのために眠れない。羨ましい。

新宿についてバスが停車をする。僕が席を立った瞬間に彼は僕が来るまで置いていた白い手提げバックを、僕のお尻の置いてあった場所にすぐさま投げ捨てる。邪魔だったのはお互い様だからな。何なら足をこっちのスペースに出していたのお前だからな。

2.「ね」

新宿についてJRの入り口を見ると、白いワイシャツとリュックの人だかり。台風の影響で入場制限らしい。おおーこれがテレビでみるやつ。中央線がどうなっているのか電光掲示板を確認しに構内へ。すごい人の量。遅延しているし電車の本数も少ないらしい。時間が無い訳ではないので何か食べようと思う。失神対策失神対策、決してデブだからじゃないと心で唱える。

新宿だから何でもある、というのは幻想で、思ったようなものは思った場所には無い。ウェンディズには行きたくないし上田に無いなか卯も気分じゃない。

新宿南口から西口か東口に向かうには汚い金券ショップとかトンネルをくぐっていくなんて20代の頃は知らなかった。でも僕は東京に慣れているおじさん。ゴロゴロキャリーケースを転がすしまむらの服を来た女子とは違う。そういう自負をたたえて食べ物屋さんを探す。

ラーメン屋に入る。食券制。なんとかかんとかラーメンのボタンを押すとバングラデシュっぽい店員が「●●ラーメンはいりま~す」と気の抜けた声で言う。キッチンの奥にいるのは胸に「鈴木」と書かれたマスクをした顔の小さい人。やる気の無い外国人とやる気の無いマスクマン。ええな、荒んでて。東京らしいでぇ~、いやそれこそ東京やで~と僕の中の関西人がまくしたてる。

ラーメンが出来上がる。持ってきたのはマスクをした鈴木さん。「お待たせしました~」。あれ、女子じゃん。「ご飯お替りできるんで、言ってください『ね』」と、か細く丁寧な声で言う。「ね」が付いていると付いていないのでは全く違う。「ね」の威力。お好きにしてください、とお好きにしてくださいねでは全然違う。「ね」の効果は偉大。「ね」が無いとルールを伝えるだけの言葉。「ね」があると、ルールを提示してそのルールはあなたに適用されていて許している感じが出る。「ね」。

 

3.付箋

ラーメンで脳の血流を確保して再びJR新宿駅へ向かう。沢山人が歩いているのにガード下にいるホームレスゾーンは人が避けて通る。彼ら濡れた服を干していて、その表情は何だか嬉しそう。ホームレスでも関われるイベントが台風なんだと思う。「いやいや大変だよね」って話題が出来て、災害なのに生きるためのうるおいになっている気がした。品川や上野ではキラキラしたサラリーマンやビジネスもできちゃう女子ですけど??っていう人が沢山いる。そういう人達は東京の真ん中の方にしかいない。電車で数十分走るとどんどん田舎の人達が電車に乗ってくる。アイロンのかかっていない服に、意識が低いなんて気が付かない人達。

不動産屋では女性のスタッフが、立ち上がって挨拶をしてくれる。やめて欲しい。台風の影響だろうか、遅れてきた杖をついた女性の職員が少し離れたデスクに座る。スマホを見てそれを置き、一拍あけてパソコンを立ち上げる。違う女性社員が彼女の後ろを通って何やら大量の紙がまとめられている資料を取り出して来る。立ち上げたばかりのPCが置いてある彼女の机の上で、それを読む。彼女は気を利かせて付箋を取り出しながら顔を覗き込む。女性社員は気が付いていないのか素知らぬ顔。あぁ、何か間の抜けたというか、気の利かないというか、そういうちょっとの関係性が大事にできない感じの人達なんだな、と思う。資料を見ていた女性社員は何も言わずに資料を戻し、自分の席に向かっていく。彼女は表情を変えずに付箋をしまう。

僕の担当になったおじさんは、飄々としていて気が利いて良い感じ。おじさんはおじさん同士。

 

4.チェーン

20時過ぎのバスに乗るため新宿に戻ってきた。路上ライブをやっている人達が3組いる。出発まで時間があるから全員のを聞いてみる。1組目はイケメン風とイケメン風のEXILEと芸人のEXITを足して2で割ったような風貌。「次なにいく?ラブパレードにしちゃう?」と囁いてカラオケ音源を流している。全く上手くない歌に作りこんだ表情を当て込んで気持ち良さそう。7人くらいの女子がスマホカメラを構えている前を、自転車に乗ったおばさんが無情に通り過ぎても彼らの表情は変わらない。

2組目は「マリーゴールド」を歌っているこれまた2人組の男性。細いジャージにマスクを顎にしていたと思う。路上でカラオケすんの流行ってるのね。おじさんは楽器の方が心に響くけど。

3組目は福岡から来たという男女コンビ。スタンドバイミーを歌っている。女性の声は野太くコントロールされていて気持ちが良い。でもお客さんはいない。上手と人気は比例しないの東京の冷酷さを味わい彼らは帰るのか。出発10分前まで聞いて乗り場に向かう。はげていて太っているおじさんが運転するバスが深夜の高速道路をひた走る。アナウンスの内容は私語に厳しい印象。「乗り合いバスですので」って初めて聞いた。

降り場について、バイクに乗る。途中、ショートカットをしようといつもと違う動きをした。アクセルを回してもギアが噛み合わない。ぶぉんぶぉん言うだけで進まない。やっちゃった。「いろんなことあるよな~」と思いながら、深夜の18号線をバイクを押して歩く。途中のセルフガソリンスタンドにもしかすると直せる人がいないかと思い、声を掛けてみる。眼鏡で痩せた男性。「これちょっとおかしくてもしバイク詳しい人いたらな~と思って」と言うと「こちらは修理などは一切やっておりませんので~」とおどおどした様子で言う。すまんな、声かけて。と思って「そうですよね」と言って歩き始める。彼にも彼の同僚にも出来ることは無いんだろう。結果は変わらない。

この話を知り合いに言うと「今の若者はクオリティが下がっていますからね」という。自分の領域は自分の領域でそれだけしかしないんだ、と息巻く。

自分の席以外は空けば使って良い、ガソリンスタンドはガソリンを入れるところ。そんな風にして役割をきちんと守る。マルクスの言う疎外かななんて思う。一方で「ね」を付けられただけでこんなに嬉しい。

 

5.はちみつレスポンス

喉が痛いからはちみつを入れたいとカフェで注文したら、ロイヤルミルクティーを勧められた。初めて飲んだけど甘くて美味しい。これよ、おじさんが求めていること。糖分も欲しいんだけど、ちょっとの甘えを許して欲しいのよ。それがレスポンスよ。これがカフェアメリカーノでも「合わないな!!」って言って喜べるはず。

 

言葉と感情

コンサドーレがまだJ2とJ1を行き来していた頃、次シーズンの抱負を語った直後に古巣へ移籍していった選手がいた。お別れと覚悟を書いた彼のブログには「強なんで」という謎の言葉。サポーターが集う掲示板では未だにイジられ続けている。ミスなのか、造語なのか。はたまた煽っているのか。

今日は言葉と、その裏側にある感情について考えてみたいと思う。全部の言葉が、感情と同居でOKだったらすごく楽なんだけど、感情が剥きだしになると他人は結構怖いし大変。そして何より伝わらない。この由々しき問題をどうするか。

 

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1.言葉にできない

小田和正でなく友人の彼女の話。子供が欲しいから結婚したい。仕事は楽しくないけど辞めないで結婚したい。もうすぐ30だから結婚したい。もうすぐにでも結婚したい。それでは二の足を踏んでいる友人は納得しない。彼女は「これは感情だから言葉とかで説明できないもの」だと。

女性は感情の生き物だと言う。眼鏡でインテリジェンスの高そうな元同僚も「話さなきゃって思うんだけど頭がぼーっとして話せなくなる」と教えてくれた。大学院まで行った彼女がそうやって話すのは興味深い。

納得させるための論理に感情が入り混じると、相手はどう捉えて良いのか分からなくなる。言葉の意味通り?それとも感情??それとも両方???って混乱する。

お母さんが子供に「ちゃんと説明して!」と強く言われちゃうと、多くの子供は泣くか理由にならない理由を言うだけ。母親の「説明して!」は子供にとって「言葉の裏を汲む」のスタートかもしれない。

言葉は「説明」という論理的なものなのに、表情態度口調は明らかに怒っている。言語機能がそもそも未発達なのも相まって「そんな風に言うのは、自分を愛していないのか」っていう恐怖に支配される。親にとっては教育だったとしても、子供にとって愛されていないのかという恐怖はそれは死ぬことと直結する。愛されてない→養育放棄→死んじゃうっていう連結が多分幼い子供の思考にも組み込まれているんだろう。飢え死にそうな時に落ちてるものを食べてはいけないという倫理観が意味をなさないように、子供にとって命は教育より明らかに重い。実際のところ親じゃなくても命の維持はできるんだけどね。そこまで世の中を知らないのが子供。

女性、子供に限らず「言葉で説明する」のは論理的なことと感情が不可分一体になっているから難しい。それを他人にお届けするんだから尚のこと。だからと言って感情を無視して論理的に「●●してね。」と言っても当人の感情が納得しない。感情が沸き起こるから、感情を納得させるために言葉にするわけで、その感情をベルトコンベアに載せられた菓子パンのようには吐き出し続けられない。常にぐちゃぐちゃと論理と感情が入り混じり続けてこの世に放り出されるのが言葉。

 

  2.言葉の裏を読む

前節で胸の内にある感情を表現することと、相手を論理的に納得させることには乖離があるよねって書いた。

僕の家族の話。あれこれ好き勝手に言い散らすADHDっぽさもあるけれど、言葉の裏を読み取れないASDっぽさの両方がある家だったと思う。1年くらい前までは自分が障害なんじゃないかって思っていたけどよくよく考えてみると「愛の不足とそれによって設定された家庭内ルール」が大きく関わっていると思う。

家族の全員が嘘ではないことを明朗快活に喋る。なのに本心や心懐は誰も口にしない。本当は皆愛されたいのに愛されないから、誰かの悪口か家族の悪口を論理的に言っている。愛の不足が共通の前提になっている。言葉が伝わらない時は必ず前提の齟齬がある。カレーと言えばバーモンドなのかそれともスリランカカレーなのか。使う材料が違うからカレーの材料を買ってきてと言われても、カレールーを一箱買うのか山羊を一頭買うのか分からない。そんな意味では「愛されていない前提」で話は常に進んでいるから、家族の中での話は滑らかに繋がっていた。

八島家内ルールでは言葉の裏を読むのはご法度。今考えると母が強がっていたんだと思う。なぜこの言葉を使ったのか裏側を読む思考があると、そこには母が満たせていない思いが沢山詰まっているのが明らかになっちゃうから。それを暴かれるのも恥ずかしいし、思いを汲みとってもらうほどの存在だと自分で思っていないから。だから、言葉は言葉のまま、その言葉の通りに伝えるのが素晴らしいという価値観が形成されるし、円滑にことを運ぶために必要だった。母は自分と子供を労わるために、子供は母親を気遣うために。成員の気持ちは一致。でももう少し大きな集団となるとそんなルールは無くて、折り合いが付けられない。

一般論として話しを進めると「言葉の裏を読む」機会は沢山ある。「良いですよ」と苦虫を噛み潰したような顔で言っていたら逆の意味だろうし、コンビニで「いらっしゃいませ~」と気ダルそうに言っていたら「こんな夜中に来るんじゃねえよ」の意味。言葉の裏側の感情を分かったからと言って、コンビニからそそくさと出ていく訳には行かないけど、家族や友人が言葉と感情の不一致を見せてきたら、感情の方を取ることをおすすめしたい。

 

3.老害とゆとり

言葉を言葉通りの意味でなく、その背後に含まれている意味も感情も汲み取るのが大人だとしたら大人とは猛烈に忙しい生き物。上司に「これやっといて」と渡された書類にもし続きがあったら続きもやるのが会社員っぽさ。言わずとも察してくれよ文化。それには際限が無い。一個汲み取ったら更にもう一個、次々に察す。それは無限。それが出来た人だけが出世するのなら僕は出世はしなくていい。会社員しか無い世界だったらやるけど。

老害による察する文化とゆとりによる言葉通り文化は水と油。僕も31歳だから「若いやつは言われたことしかしない」と周りから聞こえてくる。言わずともやれよ、全力で、前向きに。って求める老害。「なんで言わないで済まそうとするの」「言葉にしない理由が分からない」がゆとり。「全部言葉に出来た方が便利だけど、そこまでの時間が無いから包括的に柔軟に考えて」ができたら良いんだけど、それをするには経験値が足りないし、権限が与えられていないって思っちゃうのよね。それを説明できないおじさんも、勝手に縮こまる若者もどちらも悪い。レンタル何もしない人が人気なのは「人だけど何の価値観も持たないフラットさが、言葉をそのまま受け止められたい人達にとって魅力なんだと思う。

多くの場合、世の中はどちらか一方では成り立たない。レンタルさんもずっと何もしないわけではない。

感情をストレートに伝え続けても、論理的であり続けても何らかの無理が生じる。決め打ちが今のところおすすめ。この人には論理的に。この人には感情を多少入れても大丈夫。みたいに。事前に決めておくと結構楽。