僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

紐を解す

手指が固いことに気が付いた。元々左手の人差し指の付け根にガングリオンという皮膚下に出来るできものがあり、指を深く曲げると痛い。そのせいもあるけどぎゅっとつよく手を握りしめられない。指を折りたたんで小さくすることが出来ない。

ガングリオンという名前、面白いと思う。僕はカタカナの名称を覚えるのが非常に苦手。これを覚えるまでに100回くらい聞いてやっと覚えられた。この間教えてもらった五本指のスポーツシューズの名前はもう思い出せない。ヴィンセント?ヴィスト?みたいな感じだったと思う。カタカナを覚える時期に小学校を休んだか、カタカナを支配している脳の分野が機能を停止している気がする。

f:id:yashimaryoz:20190919174202j:plain

 

 

 

1.はしがき

不器用で面倒臭がりである。部屋履きにしているジャージの紐は、毎度あるべき場所から抜け落ちて、自分では入れられず誰かに入れてもらう。未だに狭いあの穴の中を推進力を持たない紐がどうやって日の出を見ているのか理解していない。

以前行った個人経営の自転車屋では、愛されていない僕のクロスバイクを見て「触りたくない」とお叱りを受けた。グリップはねちょねちょ。サドルには破れがあればそう言われても仕方ない。

すぐ絡まる白いイヤホンは、絡まっていることが普通。もう丸まったまま使う。それか使わないで音を小さくして動画を見る。思いついて8の字巻きをしてみても既にクセの付いた電線には通用しない。放っておいたら意志を持つ生き物のようにぐねぐねと勝手に絡まりだす。ケーブル怖い。

 

2.雨降って

昔、マフラーを編んだことがある。灰色の毛糸を使って冬休みの自由研究。祖母に教えてもらって始めた。学校帰り祖母の家に行って習っていて、毛糸が絡まった。手を出されてしまう。僕も「やりたいんならいいよ」の傲岸な態度で自ら解かない。マフラー自体も僕が寝ている間に3分の1くらい編んでいた。出来上がったものは、担任の「マフラーは編むのが大変」という一存で優秀な研究のひとつとして祀り上げられた。

絡まるまで放置して、解す作業は苦手というのは人付き合いにおいても顕著に出ている気がする。絡まり始めたら、もう面倒になってそもそも付き合いをやめてしまう。熊代享さんの「認められたい」では認められるためのメソッドは、人付き合いで「雨降って地固まる」的な体験をしていくことが必要と書いていた。それが遠回りに見えるけどそうしかないと言っていた。全くの同意。僕は雲が見えてきたらすぐに家に帰って、雨を受けいないようにしている(た)気がする。

 

認められたい

認められたい

 

 最近、一個だけ絡まったものを解す作業を出来た気がする。僕と同じようなメンタルの弱そうな目をした大柄な男。その人とケンカになりかけたんだけど、お互い我慢と納得の狭間を行き来してご破算になるのを避けた。まさに雨降って地固まる。なりかけたケンカが無ければ、こんなに大事に思っていたなんて感じられない。

ケンカは密接になればなるほど簡単に起こる。大事にしているものの違いやその言い方。お互いの機嫌。甘えとか慣れ。今回の場合もそうやって起きた。僕の琴線に触れた言葉がどういう意味なのか、聞いてくれた。だから僕もそれをやり返した。完璧には納得はできない。けど違いがあるということに対しては納得ができた。そんなやり取り。そんなやり取りは、時間は無限にかかるし、さっきまでの自分がどういう感情で言葉を発していたのかひとつひとつ相手に伝わるように説明する。どうにかして自分が格好悪くないように取り繕おうと試みるけど、それは結局時間の浪費を招く。思ったことを思ったままに、でもケンカ腰じゃなく。そんな風にしないと解けない。

 

3.「誰が言ったか」フィルター

日本人は「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」に重きを置いている民族だと言う。僕の教授の師匠に当たる人の本をゼミの課題にしたことがある。その本は彼の研究人生の総論みたいな本。新しいことや言いたいでなく、俺はこんなことをしてきたんだ、すごいだろ、そうだろ、という内容。要約するのに苦労した。全ては過去の著作を読んでね、で事足りる。教授は内容じゃなく誰が書いたか、で文献を選んだんだろう。新進気鋭の学者が言う切れ味鋭い指摘よりも東大の教授が言った普通のことが評価される。そんな風に研究は進んでいる。「誰が言ったか」は、僕ら一般人の中でも使い倒されていて、その文化はどんな集団であれ強度の差はあれど適用されている。フットサルでも僕が言う「プレスかけろ」より上手な人の方が重みがあるように感じる。全く同じタイミング、言葉の選び方だとしても効き目が違う。

こんなネガティブに感じる文化だとしても、日本にいて日本人と付き合うのであればその流れを汲まずにいられない。ポジティブに考えると、その「選ばれし人」になれば何を言っても大丈夫。そうなる。そうなりたい。もしそうであれば、まず自分が「この人とは大抵のことがあろうとお付き合いをしていく」と決めたとしたら、どんな言葉であれ受け入れることが前提。そういう決め打ちで人と付き合うと、ひとつひとつの言葉に自分が選別をしないで済む。どんな言葉もポジティブに変換する。そうすると相手も自分を受け入れてくる。そんな風に人は出来ていると思う。

もし受け入れられない言葉や態度が相手から出てきたとしたら、選別するんじゃくてどういう経緯で思考回路で出てきたのか、紐解いていこう。それが雨降って地固まる。全員にやらなくていいはず。人付き合いは多ければ多い程良いことはあるかもしれないけど、いきなりは困難。コミュニケーションモンスターに全ての人がなれる訳じゃない。自分が付き合おうと決めた人と、必ず付き合っていく。それが大事。