僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

言葉と感情

コンサドーレがまだJ2とJ1を行き来していた頃、次シーズンの抱負を語った直後に古巣へ移籍していった選手がいた。お別れと覚悟を書いた彼のブログには「強なんで」という謎の言葉。サポーターが集う掲示板では未だにイジられ続けている。ミスなのか、造語なのか。はたまた煽っているのか。

今日は言葉と、その裏側にある感情について考えてみたいと思う。全部の言葉が、感情と同居でOKだったらすごく楽なんだけど、感情が剥きだしになると他人は結構怖いし大変。そして何より伝わらない。この由々しき問題をどうするか。

 

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1.言葉にできない

小田和正でなく友人の彼女の話。子供が欲しいから結婚したい。仕事は楽しくないけど辞めないで結婚したい。もうすぐ30だから結婚したい。もうすぐにでも結婚したい。それでは二の足を踏んでいる友人は納得しない。彼女は「これは感情だから言葉とかで説明できないもの」だと。

女性は感情の生き物だと言う。眼鏡でインテリジェンスの高そうな元同僚も「話さなきゃって思うんだけど頭がぼーっとして話せなくなる」と教えてくれた。大学院まで行った彼女がそうやって話すのは興味深い。

納得させるための論理に感情が入り混じると、相手はどう捉えて良いのか分からなくなる。言葉の意味通り?それとも感情??それとも両方???って混乱する。

お母さんが子供に「ちゃんと説明して!」と強く言われちゃうと、多くの子供は泣くか理由にならない理由を言うだけ。母親の「説明して!」は子供にとって「言葉の裏を汲む」のスタートかもしれない。

言葉は「説明」という論理的なものなのに、表情態度口調は明らかに怒っている。言語機能がそもそも未発達なのも相まって「そんな風に言うのは、自分を愛していないのか」っていう恐怖に支配される。親にとっては教育だったとしても、子供にとって愛されていないのかという恐怖はそれは死ぬことと直結する。愛されてない→養育放棄→死んじゃうっていう連結が多分幼い子供の思考にも組み込まれているんだろう。飢え死にそうな時に落ちてるものを食べてはいけないという倫理観が意味をなさないように、子供にとって命は教育より明らかに重い。実際のところ親じゃなくても命の維持はできるんだけどね。そこまで世の中を知らないのが子供。

女性、子供に限らず「言葉で説明する」のは論理的なことと感情が不可分一体になっているから難しい。それを他人にお届けするんだから尚のこと。だからと言って感情を無視して論理的に「●●してね。」と言っても当人の感情が納得しない。感情が沸き起こるから、感情を納得させるために言葉にするわけで、その感情をベルトコンベアに載せられた菓子パンのようには吐き出し続けられない。常にぐちゃぐちゃと論理と感情が入り混じり続けてこの世に放り出されるのが言葉。

 

  2.言葉の裏を読む

前節で胸の内にある感情を表現することと、相手を論理的に納得させることには乖離があるよねって書いた。

僕の家族の話。あれこれ好き勝手に言い散らすADHDっぽさもあるけれど、言葉の裏を読み取れないASDっぽさの両方がある家だったと思う。1年くらい前までは自分が障害なんじゃないかって思っていたけどよくよく考えてみると「愛の不足とそれによって設定された家庭内ルール」が大きく関わっていると思う。

家族の全員が嘘ではないことを明朗快活に喋る。なのに本心や心懐は誰も口にしない。本当は皆愛されたいのに愛されないから、誰かの悪口か家族の悪口を論理的に言っている。愛の不足が共通の前提になっている。言葉が伝わらない時は必ず前提の齟齬がある。カレーと言えばバーモンドなのかそれともスリランカカレーなのか。使う材料が違うからカレーの材料を買ってきてと言われても、カレールーを一箱買うのか山羊を一頭買うのか分からない。そんな意味では「愛されていない前提」で話は常に進んでいるから、家族の中での話は滑らかに繋がっていた。

八島家内ルールでは言葉の裏を読むのはご法度。今考えると母が強がっていたんだと思う。なぜこの言葉を使ったのか裏側を読む思考があると、そこには母が満たせていない思いが沢山詰まっているのが明らかになっちゃうから。それを暴かれるのも恥ずかしいし、思いを汲みとってもらうほどの存在だと自分で思っていないから。だから、言葉は言葉のまま、その言葉の通りに伝えるのが素晴らしいという価値観が形成されるし、円滑にことを運ぶために必要だった。母は自分と子供を労わるために、子供は母親を気遣うために。成員の気持ちは一致。でももう少し大きな集団となるとそんなルールは無くて、折り合いが付けられない。

一般論として話しを進めると「言葉の裏を読む」機会は沢山ある。「良いですよ」と苦虫を噛み潰したような顔で言っていたら逆の意味だろうし、コンビニで「いらっしゃいませ~」と気ダルそうに言っていたら「こんな夜中に来るんじゃねえよ」の意味。言葉の裏側の感情を分かったからと言って、コンビニからそそくさと出ていく訳には行かないけど、家族や友人が言葉と感情の不一致を見せてきたら、感情の方を取ることをおすすめしたい。

 

3.老害とゆとり

言葉を言葉通りの意味でなく、その背後に含まれている意味も感情も汲み取るのが大人だとしたら大人とは猛烈に忙しい生き物。上司に「これやっといて」と渡された書類にもし続きがあったら続きもやるのが会社員っぽさ。言わずとも察してくれよ文化。それには際限が無い。一個汲み取ったら更にもう一個、次々に察す。それは無限。それが出来た人だけが出世するのなら僕は出世はしなくていい。会社員しか無い世界だったらやるけど。

老害による察する文化とゆとりによる言葉通り文化は水と油。僕も31歳だから「若いやつは言われたことしかしない」と周りから聞こえてくる。言わずともやれよ、全力で、前向きに。って求める老害。「なんで言わないで済まそうとするの」「言葉にしない理由が分からない」がゆとり。「全部言葉に出来た方が便利だけど、そこまでの時間が無いから包括的に柔軟に考えて」ができたら良いんだけど、それをするには経験値が足りないし、権限が与えられていないって思っちゃうのよね。それを説明できないおじさんも、勝手に縮こまる若者もどちらも悪い。レンタル何もしない人が人気なのは「人だけど何の価値観も持たないフラットさが、言葉をそのまま受け止められたい人達にとって魅力なんだと思う。

多くの場合、世の中はどちらか一方では成り立たない。レンタルさんもずっと何もしないわけではない。

感情をストレートに伝え続けても、論理的であり続けても何らかの無理が生じる。決め打ちが今のところおすすめ。この人には論理的に。この人には感情を多少入れても大丈夫。みたいに。事前に決めておくと結構楽。