僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

覚悟はいつもゆるやかに

4日間ブログをさぼってみた。文章を書くということと、行動をすること。どちらも行動なのに筆を進めるのはどうしても内省が伴う。「心の言語化」はほとんど心のしんどい部分を見つめる作業で、心を静かで落ち着ける場所に物理的にも精神的にも留めておく必要がある。それはほぼ「行動すること」との対義語となる。今の僕はうじうじしている時間はどうやら無い。

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1.はしがき

都会に行ってきた。品川と、山梨の県境とでは随分いる人が違う。前者はリュックに仕立ての綺麗なワイシャツにリュックを背負っている、髪をジェルで立てているビジネスマン。派手なワンピースに茶色の髪の毛をした女性。自己主張がある。ビジネスをする人、美しさ売りにしている人、そういう訴えを体からむんむんと発していながら、さもそれが当たりまえかのように電車に乗っている。後者は「何者でもない」それ自体が自分。何者でもなくても、どう見られていても、それでいいって思っている。服も髪の毛にも手はなるべく加えない。自然のままが美しい。電車に俯いて座っている彼らの思考を集約して約分するとこういう言葉になりそう。

オレンジラインが引いてある電車の中に、沢山の人がいる。ひとりひとりになんて価値は見いだせないけど、どの人も絶対におぎゃーと生まれてきて、殆どの人が学校に行って、殆どの人が仕事をして紆余曲折、七転八倒この電車に今日も辿り着いているらしい。みんなどうやってここにいることにしたんだろうって思う。「生まれも育ちも東京でぃ」。「フツーに大学出てシューカツして東京の会社にいます」。そんな感じだろうか。どうやって生まれて、どうやって東京にいて、どうやってこの電車に乗っているんだろう。気になっていた。

 

2.ホームパーティーは開催される

誰しもが今そこにいること、そこで働いているかなんて、確固たる理由は無いんだと思う。「結婚をしてこの土地に来ているんです」。なんてのは最もらしい理由だけど、よく考えると大したことじゃない。夫婦は同居が要件では無いし、どちらかの処に行く必要も良く考えるとあんまり無い。だけど皆決めている。人生の振り子を対極に動かすような重い重い決断も。「夫の住む場所に私は住んで、家で炊事洗濯掃除をして、ゆくゆくは子供を産んで、ママ友と仲良くして・・・」なんて言う想像をしながらすんなりと。その決定は、決めようとして決めるんじゃない。既に自分の頭の中で決まった事項をただ処理するだけ。「もうお前は死んでいる状態」。いや、「もう私はママ友とホームパーティをしている」状態。

ママ友とホームパーティをすることを決めるのに覚悟はいるだろうか。僕は東京に用を足すのを決めるのにも、ウロウロ部屋を徘徊し、お土産のインスタントコーヒーを飲んで気を紛らわせて、それでも駄目。家を出てカフェでようやく行く手段を確保した。それだけ間に緩衝材を入れてみても、バスの予約もホテルの予約も日にちが全部間違っていた。

家を片付ける覚悟はいるかもしれない。いや、便利屋に頼んだっていい。美味しい料理を作る覚悟か。それもピザなんかを数枚頼んでワインと供すれば何てこと無い。決められる。どうやったって決まるし、決めさえすれば地球にインデペンデンスデイがやってこない限りどうやったってホームパーティは開催される。

 

3.崖ジャンプ

子供がそろそろ産まれそうな夫婦がいる。妻は自然色の服に大きいお腹に手を添えている。夫は「夜もあんまり出かけられなくなるから」と産まれた後のことを何にでも関連付けて考える。この夫婦は子供を持つことを相をも沢山したと思う。でもそれはタイミングの問題。何歳までに、とか夫の稼ぎで大丈夫か、とかそういう話。命とは、子育てとは、ついこの間まで子供だった自分らに子供が育てられるのか。そういうそもそも論じゃなく、前提が子供ありき。想像だけどね。

僕は子供を持つか持たないか、考えたことがある。結婚してからも何度も自分に問うたし、命に対しての責任を取れるのか煩悶した時間も短くない。結局答えは出ないまま離れることとなって気が付いた。自分に問うている時点で、もう違うんだと。生きるか死ぬか、赤か黒か、半か丁か両極の答えがある問いをしている時点でその人がいる場所は崖っぷち。どっちを選ぶにしても人生を投げ打つ覚悟が要る。子供を持つことに人生を投げ打つ覚悟が必要なんじゃなくて、そのどっちか問うている時点で人生を投げ打つような形になっている、ということ。「崖ジャンプ」は覚悟でも選択でも無く、投身。飛ぶか飛ばないか迷う時点で身投げの構造。

「崖ジャンプ」を回避するには、その選択肢の答えが、その人のパーソナルなものとなるまで刷り込む必要がある。これを言語化すると恐ろしいけど、実際のところありふれている。「結婚したら子供は持つもの」「お年寄りに席は譲ろう」「男は強い」。そんなことどちらかなんて思考せずとも、悩まなくともどっちにするか決まっている。判断する余地が無い。

先述の夫婦は「夫婦は子供を持つもの」という前提で成り立っているんだろう。どちらかじゃない。持つ、という暗黙の合意のもとの相談。暗黙の了解は成り立ってさえいれば、途轍もなく楽。どちらの親も、子供を持つことに対して微塵も疑問を持たずに彼らを育てているから、その文化が体に染み込んでいる。考えずとも出てくる正拳突きみたいに思考の型がある。

 

4.ゆるやか

宇宙の果てにいて、右か左どっちに行くなんて判断ができない。どこに何があるかも分からないし、行き着く先があるのかすらも見えていない。同じような理不尽が人の決断に際して起きる。それは決められない。決めなくていい。理不尽だって、訴えていい。二者択一で問われても、どっちを選ぶことも出来ない選択だって選択なはず。何かしら入っている冷蔵庫があって、鍋とかも多分あるけど、A定食にする?B定食にする?って割烹着のおばちゃんに聞かれているのと一緒。わかんない。

どちらの選択にしたとしても納得できる状態でないと選択とは言えない。子供の例えだと、持つことを選んだとしても、持たないことを選んだとしても未来は幸せそうだなって思って選択する。

そもそも人の納得することは、時間や労力がかかる。きっと先述の夫婦は「子供は持つもの」という考えを親が背中でお金で労力で示し続けていたんだと思う。その蓄積が文化と呼ばれているもの。納得も文化も、ゆるやかにこつこつと培われてきている。あなたは大事なんだって示し続けて、それを長い間、継続できるってことは無理しているんじゃないって子供に刷り込ませているから、自分達も大事に出来るって自然と思える。それが彼らの選択の根拠だろう。

どっちであっても納得できなくちゃいけない。もし覚悟するしかないのなら、玉砕覚悟じゃなく、生き続ける覚悟しか無い。