僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

変化の一過

台風が来た。昨晩は雨が降っていたけれど、大したことない。風はそれなりに存在を主張する強さ。携帯電話から警報が何度も鳴って「警戒レベル5です」と言う。周りは静か。「冷静に避難をしてください」と言うテレビと携帯電話だけがうるさい。それらに没頭すると体と心が分離する。近くで戦争が起きているのに、めっちゃ平和。日常が壊れそうなのに、壊れてほしいくらい嫌になっているのに壊れてくれない。ゴジラの足が、僕の家だけを避けて通った気分。日常にパルプンテが起きるんじゃないか、そんな高揚感と、その魔法は起きてくれない現実を直視する絶望感。揺さぶられる。

 

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1.終点を見に

日が昇って、暮れての毎日。先に人生のゴールに辿り着いたって思っているジジイ共は、朝起きて野菜の様子を見て、ラジオを聞いて心拍数と感情の揺れが無いように生きる。人の全ては日常にある。そう、絶対。日々の暮らしの中にその人の全てが詰まっていて、それを楽しんだり喜んだり悲しんだりする。そういう入れ物の中に入れられている。じゃあ、夜には心地良いギターを聞いて、美味しいご飯を食べて眠る。それ以外に何があるんだろうか。きっと何もないんだろうけど、自分の目で確かめてない。脳が高速で演算した結果だとしても、この目で見てはいない。だから、一度人のいなくなった終着駅にまで行きたいんだと思う。寒々しい駅舎まで行って「やっぱ違ったなははは」って嘲るまでがワンパターン。

恐らく次は死ぬほど好きなことをやりまくっても、それだけが幸せじゃないことを知るデスロード。幸せも、悲しみも果ては何もないことを確かめたいのかもね。

 

2.調和

ほどほどにすれば良いって20年は心がけている。小さい頃は常にインスタント麺にゴマをかけすぎて怒られた。ナッツの様な風味とプチプチする食感が時々あるからアクセントになるのに、口の中が大量にかけられたゴマに支配されるとよろしくない。

足るを知るとか、バランスとか調和。言葉は知っているけど、どういうことか分かっていない。いや、料理なら分かる。トマト缶の酸っぱさと、青唐辛子の辛さが良きバランスのスープを昨日作った。分からないのは自分と他人の調和だ。

知り合いが「探り合いになったらつまんない」と言う。相手はどう考えているのか察して、行動する。そうすると相手も察する。そして察したんだろうか、って察する。そのまた察したのかどうかを・・・ああああああサッシサッシサッシ。際限が無い。永遠に辿り着かない惑星までのロケットに乗るくらいなら、宇宙に放流してほしい。石になりたい。それに捉われると、察するくらいなら、察されるくらいなら、そもそも話さない、行動しないことを選んでしまうのが問題。どこに行くんだよ、サッシの旅は。目的地は穏やかな毎日なのか。

 

3.感覚観測点

日常パルプンテも、終点へ行きたくなる欲望も、ここのままじゃいけない、今に満足できない感情で、人間の粗暴で野卑な部分だと思う。人の変化したい欲求は限りが無い。ハンターハンターのネテロ会長が人間の底知れぬ欲望をくらえ!と言って自爆したみたいに、そこが人間の怖いところ。以前にも書いたけど「欲望は他人のもの」というラカンの言葉を僕は採用している。他人をコピーして、元々のコピーしていたものの一部分を否定して、そうやって人が変わっていく。自分を知るには、一番近しい人の3人を足して割ったものが自分の像に近いとインターネットで誰かが書いていた。もしそれが本当だとしたら、孤高なる宇宙に輝く、キラ星のようなポイントが僕には2つくらいしかない。自分が模写している対称的な2つのイメージに引っ張られて、体が引きちぎれそう。彦星と織姫の間を流れる天の川を何度も何度も往復しようとしている。愛し合う2人が年に一度しか会えないと諦めているくらいには険しい川なはずなのに、びちょびちょになりながら週1くらいのペースで行き来している感じ。

 

4.神の不在

大人になることは、小さいウジウジを気に留めず日々を生きること。自分が何者かなんて考えもせず24時間を消費すること。分かっている。だけど、僕の中の何かが「満足するなよ」と囁く。小さなことに満足することでしか、人は大きい満足は得られない。って知っているから違うんだって分かっている。だけど、道に落ちている100円を拾わないように、ソースの付いた皿を指で拭わないように、高潔でかつ理想を持ち続けろと僕の中の誰かが言う。矛盾はしないんだろうけど、僕の中にいる僕のイメージを使うと、僕が確実に矛盾する。それが問題。「あちらを立てればこちらが立たず」が、自分の中で起きている。

今思えば、日本の宗教感って右往左往している。大陸から仏教が来たと思ったら密教になって、儒教になったり神道になったり。敗戦して天皇が象徴になって、神道が駄目よ、となったり。日本人にはそもそもそういう信じるものを変えていきたい、不安定でいたいという遺伝子が組み込まれているのかもしれない。

 

自明人間

 

 

上田の駅前。ロータリー添いに慎ましやかな数の店がある。地方都市は概ねこんな感じ。飲み屋数軒とスタバかタリーズ。東京の端っこでも、九州の方でもきっと同じ風景なはず。大型資本によって日本全体が均質化されてる!って批判することも出来るけど、僕はどこも駅前はこんなもんよね、って知った顔が出来て安心する。

 

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1.はしがき

物事は捉え様だって誰かが言っていた。否定も肯定も気持ち次第。ポジティブシンキング。結論だけ言うと気持ち次第だとは思う。ただ結論だけを言うのって、大抵は不親切。困っている人に「ポジティブになれば変わるよ!」。コンビニで「わかばひとつ!」。女子トーク中に「要はタピオカ飲んで、街をぶらついて楽しかったってこと?」と聞くのは情緒が無い。

結論の前にある、理由とか何でそう思ったのかが言われた方が納得するのには重要だと思う。

 

1.理由の断絶

じゃあみんな理由とかバックグラウンドをペラペラ喋ろう!が趣旨ではない。

理由を喋らないのにも理由がある。長くなる、女々しい、理由を言うこと自体がその主張に自信が無いことの理由になってしまう。等々。寿司屋の大将は今日も黙々と握り続けるし、大工は作務衣を着て玄能を打ち続ける。そんなもん。

じゃあ「言いたいこと」に対する自信、あるいは自明性はどうやって露わになるだろうか。会話であるという前提であれば、簡単なのが説明しないこと。理由はそのまた理由を生んで、その生まれた理由が理由を求む。辿り着く理由の終着点は必ず「何故生きているのか」になる。僕らは明らかに生きていて、その言葉を発している。だから理由は説明しない、が発生するんだと思う。

 

2.不一致

理由が語れ無いのは、理由が理由を生んでその又理由を説明しなきゃならなくなって際限の無い事由になるからと書いた。一方で、人は理由は知りたい生き物。納得がなによりも大事だとジャイロツェペリも言っていた。

深く深く掘っていくと、誰かが言う言葉に納得ができないことは「これまでの人生で自分が納得できていないこと」が内包されていると思う。一例を出すと「男は稼ぐもんだ!」って言説に僕はひどく拒否反応を示してきた。それは多分母親の父親批判。詰る理由が分かっていないから、その言葉に強く反発してきた。男尊女卑やフェミニズムなどのまとめられた言葉達を借りてきて、否定する材料にする。もっともらしいからね。その方が。

それで、理由を省いた言葉を使う人は、その内容について深く納得をしている。少なくとも「あってはならない」とは思っていない。だから敢えて理由を言わない。

とんでもない不一致が発生する構造。元を辿れば、小さな記憶の欠片が元なのに。

 

3.自明人間

存在は説明せずとも明らかであろうか。自分が自分でいることは説明せずにいられるだろうか。自明性はどうやら自信と密接に関わっている。弱い犬程良く吠えるのたとえじゃないけど、自分のことをペラペラ喋らなくなった時に自信があるように見えるものだと思う。だから、自明人間になりたい。存在を、自分を自分が問うことの無い存在。

コピー品のコピー品

増税したらしい。タリーズでは半端な価格が目立ち、使い捨てカップに入れるからな、マグカップコスト高いからな、と宣う。それでも気の利くあの子はマグカップに入れますねと言って、並々と注がれたコーヒーを出してくれる。

万事変わっていく。いつも座る席が1人掛けから2人掛けに。物価が崩壊したようなあの中華料理屋も20円値上げしていた。

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1.はしがき

限界を知る。社会の歯車になる。高齢者になる。そういう言葉を避けて生きてきた。ネガティブワードを語るのなら明るい未来を。数秒先に死ぬかもしれないのだから、年老いた先のことを想像するのはナンセンス。そういう思考。NHKでやっていた、高齢夫婦が支え合って生きるみたいな特集を見ていて気が付いた。自分がいつまでも若くて、途方も無い成長曲線を描き続けて、キラキラと輝き続ける世界に居続けるんだって心のどこかで思っていたこと。そのキラキラした心は、子供なら誰しも持っているユートピアへの幻想であり、きっと母子同一ゆえの万能感。誇大妄想に近い夢を語るのは「俺はお母ちゃんとまだまだ一緒なんだぜえええ」と吠えていることに近い。夢があるなら既に動いている、一歩一歩でも近づこうとしている。それが、大人が夢を見るということなんだろう。そういう諦めに近いものを、排除して排除して生きていくと、チャールズブコウスキーの「死をポケットに入れて」の主人公みたいな、澄み切った偏屈老人になるんだと思う。

努力とか下積みとかそういう面倒なこと一切合切を無くして、でも悲劇的かつ喜劇的な努力エピソードは記憶している状態で夢を叶えたい。ジーニーの魔法のランプでもいけるか、この複雑な願望は。

 

2.ネガインパク

母と連絡がつかない。いや、お互いにお互いのことを嫌な風に妄想を練り込みすぎて、下手に触れられないんだと思う。仲の良い家族以外で起きる、勝手に想像しすぎ考えすぎからのケンカちっくな問答。あれ、僕の家だけか。家族って、長い時間一緒にいるから想像をする材料が沢山ある。良いことも悪いことも。もし全体的にポジティブなイメージを持てているなら「あんなことをしてもらったよな」って過去を振り返って涙ぐむこともあろう。逆だと悲惨。良い事が沢山あったとしても、ネガはポジにインパクトで敵わない。毎日素敵な朝ごはんを食べて、軽快な車で出かけていても、一度のバッドラック事故の記憶の方が圧倒的に記憶に残る。数の問題なのか。明らかに幸せっぽいことの方が溢れかえっている世の中では、不幸せに不寛容。いや、世の中が幸せである証拠として、不幸せの印象が強く残るって言った方が正確だろうか。ダークナイトのジョーカーみたいに。あいつの顔ってめっちゃ印象的だよね。

人が怒っているのが面白いのも、列車に接触した人を携帯でパシャパシャするのも、不幸が持つキャッチーさが起因していると思う。エンタメ性があるのよね。きっと。

当たり前は当たり前じゃない、と思うんだけど、当たり前は当たり前だから当たり前で、それが当たり前。ご飯があることも、道路がコンクリートで舗装されていることも、コンビニがある尊さも忘れちゃう。

 

3.コピー品

人はコピー製品だよなと思う。よく考えれば、父と母の複製品づくりの結果によってコピーの子供ができているんだから当たり前。子孫の繁栄は自分の遺伝子をいつまでも残り続けろよ、のコピー願望。河原にあるタンポポも、自分のコピーを何とか届けようと日々日光浴と種の放出を怠らない。ラカンが「人間の欲望は他者の欲望である」と言ったように人の「こうありたい」は「欲望」であって、他人から得てきた外部からの情報。よく言う「人間の欲望は際限が無い・・・。」みたいな言葉の意味は、欲望が無限に湧いて出てくるってことじゃなくて、「他者」が殆ど無限に見えるくらい沢山いるから、が正しい気がする。

「他者からの欲望」で、昔のことを思い出した。鬼気迫る顔で「距離感分かれよ」と詰められた。母に。今思えば、双子の兄が言った「あいつ距離感分かってないよな」発言を、母の従順な気持ちと、自分の気持ちのどこかで引っ掛る部分が掛け合わさって、「ちょっといい?」となったんだと思う。更には、どうやってか僕の非公開にしていたTwitterにそのことを書いたのを見つかって、余計に怒っていた。人って「何故その人がそれを言っているのか」ということに敏感なもので、それが純粋培養されたものかどうか、他人由来なのかどうかわかっちゃう。悲しかった。言われたことがグサリと来た、というのもあるんだけど、兄の言いなりになって、他人の言葉で僕を傷つけようとする意図に苦しんだ。イスラム国の原理を唱えた人は「異教徒をぶっ殺せ」とは言ってないと思う。だけど取り巻きの人が「俺の方が教えを分かってる」競争を始めちゃう。どんどん過激になって、教えを説いた人も「ふむふむ」と暴走を始めたことに満足しちゃう。だって自分の言葉が人を動かすって気持ちが良いものね。言葉によるコピーが暴走を始める。AIよりも先に言葉が先に暴走を始めているからね!!映画化必至!!

 

4.焼酎は評価しない

高齢者になると動きは緩慢に、思考は鈍重になる。内村さまぁ~ずで還暦を迎えた上島竜平が、焼酎の中身を水に替えられていても気が付かなかった。何となく飲んでいるんだと思う。きっと「焼酎の味を見極めるモード」で飲んだら気が付けはするだろう。でも、それをする意味ってあるだろうか。テイスティングだったら良いけど、見極めるっていうのは、良い事も悪い事も言語化すること。「この焼酎はすっきりしているけど、コクが無い」と言ったら、コクが無い焼酎なんだなってその言葉を聞いた人は思う。なぜならネガティブは強いから。美味しいのが普通だから。評価すること自体が既に評価をつけている、ってことよね。評価に値しない、じゃなくて、既に素晴らしいから評価そのものをしない。そんな論理だと思う。

前回のブログで「まずは自分が幸せであれ」と書いた。それは自分も家族も、どんな人もそう。というのは、欲望であろうと、考え方であろうと、焼酎であろうと、人は知らず知らずのうちに他人のことをインストールして自分のものにする生き物。かつ幸せは見え辛くて、不幸せの方がインパクトが強い。もし、その理屈が本当なら、目に映る全てがとりあえずは幸せっぽい方が良い。だから幸せであれ、幸せであれ、って思っている。家族も、近しい人も。その姿を見て、幸せをコピーできると思う。

合わせ鏡

僕らの父親世代の人たちが20代~30代の頃って「カッコつける」が普通だったと思う。港にあるロープをかけるビットに足を置いて、ジャケット片手にきらりと笑うイメージ。石原裕次郎。僕の父親は若かりし頃、写真を撮る時だけ二重にして映っていたらしい。祖母の姉に意地悪く指摘されていたのを母親から聞いた。木村拓哉がどんな人を演じても木村拓哉でしかないというのと、昔の「格好つける」は似ている気がする。

 

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1.はしがき

有名人なら誰に似ているかと聞かれたので、合コンで使うようなアプリをダウンロードして判定してもらう。エレファントカシマシの宮本さんだった。もっさ具合と眉毛の色味と肌の色が近い。朝鏡を見てそんなことを思い出した。駐車場で誰かの車に反射した自分を歩きながら横眼で見るし、エスカレーターに乗ったら自動で動く自分の姿を凝視する。ナルシストなのか、と言われると否定はできない。僕としては、晴れた駐車場での自分は周りから見たらどういう風に映っているのか、この蛍光灯が煌めいているデパートにいる自分がどんな感じなのか確認したい。あれ、これがいわゆるナルシストか。

 

2.鏡像段階

人は自分を映す鏡であるとよく言う。自分の気分が良ければ目の前の人が素敵に見える。その逆も然りで、この人はどうしていつも機嫌が悪いんだろうと感じていたら、自分がそうだった。ってことはあると思う。人はどうやっても自分のフィルターを通してしか世界を見ていないし、その透明度は質的に変わることはあっても「前より綺麗になって世界が良く見える!」はハズキルーペをかけた舘ひろしの視野の中でしかあり得ない。これまでと違うフィルターが出来上がっただけのこと。神様がお創りなすった世界じゃなく、自分が見た世界があるだけ。デカルトはすごい。

子供が自我を確立する過程で、鏡像段階というのがあるらしい。鏡に映った自分を自分であるとみなすようになる時期。それまで母と自分の区別が無い母子同一。鏡に映った自分(らしきもの)を「これはあなただよ」と母親に教えられることで、自分が母親と区別のある存在であることに気が付き、自我が確立していく。

このようにまとめると「自分が自分である」ことは、簡単で自明のように見える。肉体として同一でないことは明らかだったとしても、精神的に独立独歩することは容易でないことのように感じる。というのも、母親は子供が大事。子供は母親が大事。であるがゆえに、世界中で誰が批判しようとも味方でありたいのが人情で、その思慕の感情が時として鏡に映った自分の像を歪めてしまうことに繋がると思っている。

 

3.ビューティフルワールド

家族は世界で一番大事。美しい価値観。僕もそう思っている。沢山いるハイタッチし合うブラザーよりも家族が大事。なぜなら一番近くの存在だから。今でもそう思っているし、これからもそう。

母親と子供が価値観を共有して、その世界の中で生きていける人はいる。幸せだと思う。一番の理解者であって欲しい母親を理解でき、自分も理解が出来る。ミニマムな幸せ。丁寧な暮らし。幸せって、いつの時も自分と他者との世界が出来上がった時に訪れる。自分と他人が融合し合う蕩けるような時間。いつまでも続けば良いなって思う。母親を求める子供と子供を求める母親のマッチング。何の疑いも無い美しき世界。

ただ、その美しさは万人に平等にとはならない。僕だってそのビューティフルワールドに住民票を移したいけれど、その資格が無い。切符は母親と「合うか合わないか」。

ビューティフルワールドに移り住みたい欲望は即ち、母子同一への欲望であると思う。おじさんが何を甘えたことをぬかしてるんだと憤りのことだろう。批判の気持ちをどうか静めて、もう少しお付き合いを。

僕から見ると、世の中の寂しそうな顔をしている人のほとんどが母子同一の欲望を解消できないから、かみ殺し見ない振りをして、日々の生活に埋没している。その原因となるのが、母子同一への欲望だと思う。寂しい目をしている人は、母親からの愛情が不安定であったなどの問題を抱えていて、母子同一から独り立ちが出来ずに、過去のことをひきずって苦しんでいるんだと思う。

 

4.醸す

この問題が簡単でないのは母親だって1人の人間であること。育児に専念できる精神的、物質的な環境が整っていて、子供がどうであったとしても受け止められる余裕がある状況にいる人はそんなにいない。むしろギリギリの中で育てている人の方が多いような気がする。だから、鏡が悲しみを帯びる。悲しみを帯びた鏡からは悲しみが噴出して、定着する。悲しい母親を僕が助けなきゃ、悲しい子供を私が助けなきゃ。合わせ鏡が無限に見えるほど連続してその姿を映し合うように「助けなきゃ」と「悲しみ」が連鎖する。

望むべきは母親が幸せで居続けること。幸せを見出す人であれば事態は変わる。まず、自分が幸せであろう。幸せだって口で言うのもいいけど、まず幸せだって雰囲気をぷんぷんさせたい。ネガティブの方が伝染力は強いけど、弱くともコツコツ幸せを醸し出していこう。それが始まりな気がする。

 

心は複雑に

上田市内に新しくスターバックスが出来た。箱の様に四角い外観の周りにある植木に間接照明が当たっている。店の入り口まで行くと、外国人の喉が開いた声のジャズが流れていて、カウンターには前髪をかきあげた女性が自信たっぷりに微笑んでいる。店に入るよりも前に素敵な店だ、と思った。やっぱり新しい店だから、とか店員が綺麗だからって理由なのかと思ったけどそうじゃない。音楽だ。箱に近付いたら聞こえてくる。お洒落のテリトリーが広い。それが海外っぽいんだ。昔行ったバリのテラス席があるようなイタリアンレストランも、石垣島にあるリゾートも外で音楽が聴ける。その体験が、僕の中にある数少ない、海外おしゃれ記憶を呼び起こして「ここは良い店だ」となったんだと思う。おじさんになるって悪くない。色んな記憶を引っ張り出して、目の前のことに当てはめて嬉しくなれる。

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1.はしがき

ラカンの本を借りに図書館へ行った。地方都市ゆえの蔵書数の少なさ。フロイトすら怪しい。ショートカットで眼鏡のいかにも図書館職員らしいおばさんが探してくれて、やっと一冊だけ見つかる。読んでみると、あれ僕は何を読んでいるのかなってなるほどに難しい。「あのねー難しいことを難しいまま書くのはどうなのよ」と分からないストレスで出てきた毒を心の中で吐く。

いつか考えたことがある。難しいこと、複雑なこと。それを自分のフィルターを通して人に伝えるか。千葉雅也さんの「勉強の哲学」でも勉強をすること、難しい言葉を得ていくことはキモくなっていくことは不可避であると書いていた。大学生がゼミで覚えた「アグリー」を連発するのもそう。札幌にいた時の職場で来期の計画を立てる際、上司がアジェンダアジェンダ女子になっていた。「アジェンダ持って行かなきゃ」「アジェンダ詰めなきゃ」。ちょうどその時選挙があった頃だったから、耳に入って使いたくなったんだと思う。新しい知識を手に入れると使いたくなる。その言葉でなきゃ伝わらない、よりも、知っている私すごいでしょ、が先に来ると他人には自慢がビシビシ響いてくる。それがキモさなんだと理解している。

 

2.複雑であること

新しい言葉は使うとキモイいから使うんじゃねえ、と言いたいのでは無い。難解さ、複雑さは、基本的に良いと思っている。

エピソード。中学生の頃付き合っていた彼女に「僕は考え事していそうか」と聞いたことがある。タイピングしている間にも耳が真っ赤になりそうな話。お互い中学生だからか、今は子供が2人いるらしい彼女だった人が受け止め上手だったのか定かではないけど、その時は「考え事してそう」と欲しい答えを貰えた。昔から、難しいことを考えている自分が格好いい系男子。誰しもあるよね。そうだよね。

中学生の男子が思春期を迎えて、急にこどもおじさんになることと同じように、蝶の羽化がグロテスクなように、変わっていくときは必ずキモい。女性の上司は3年以上たった今では、アジェンダを連発せず淡々と会議のための書類を作っているはず。アグリーマンの彼も、話してみるとカタカナ語が随分減っていた。そんなもの。興味を持って、新しく覚えて、ほやほやのそれをアピールして、洗練されていき、残ったものが身に付いていく。そんなサイクルを繰り返して人はどんどん複雑に、知性や人間性が豊かになっていくものだと思う。

 

3.単純と複雑

僕のバイクは、バイクの基本中の基本みたいな作りをしているらしい。このバイクをいじれるようになれば、どんなバイクも大体わかっちゃうよねと口コミサイトでみた。シートを張り替えるために色々と触ってみると、確かに単純。原動機付自転車とはよく言ったもので、チェーンがあってその動力がタイヤに伝わる。そのあたりは自転車と一緒。知り合いのおじさんは、エンジンスターターはセルじゃなくキックが一番だと言う。

現在使われている情報を記憶する媒体は100年後までは保持できないらしい。逆に壁画なんかは石を傷つけて描いているから、何千年と経った僕らでも見ることが出来る。単純であればあるほど、長く保つことが出来る。

僕のバイクも、壁画も機構が単純。ゆえに頑丈。これって、人の心にも応用が利くと思っている。単純であればあるほど心はストレスに強い。ネアンデルタール原人に「SNSいじめが流行っていて...」と相談しても共感されない。そう、知らないはストレスには一番強い。じゃあみんな原人になろう!と呼びかけたいのではない。むしろ逆で、もっと複雑に、もっと色んなことを知っていこうと言いたい。

 

4.複雑さが単純さ

ワンピースの作者の尾田栄一郎さんは、ルフィに考えているセリフを言わせないようにしているらしい。確かにルフィが「右に行ったら熊が出るかもしれないし、左に行ったら鮫がでるかもしれないよね・・・。う~んどうしよう」って言っていたら、何か萎える。「うるせえ行こう!(ドンッ!!)」が主人公らしい。思考を排除して行動あるのみ。僕はそんな人間に僕は出会ったことが無い。ホリエモンとかはもしかすると近いかも。

ただ、僕らは日本においてルフィにはなれない。沢山悩んで、沢山考えて、ようやく動ける。それが普通だと思う。だからこそ、心を複雑にしていく

思考の材料が沢山あればあるほど、物事を判断するうえで「正解」に近づけると思う。その材料は当然知識や経験。Aと言う事象に対してBという経験しかないとしたら、きっと判断に困ると思う。本当にこれなんだろうか、前は上手くいったけど。そんな具合。2つ以上あると判断の自動化が働くと思う。判断を下すうえで、これまであった2つ以上の情報を「現在の場面に適当かどうか」抽出して、それを言語化するのはどうやら脳にはできないようで、「言語化して判断」というフローが省略される。なので、脳内は逆にクリアになる。ルフィにはなれなくとも、うじうじ判断に迷うことは少なくなる。

だからこそ、心を複雑にする必要があると思う。キモさを恐れずに学んで、色んなことをする。単純でいるために複雑さを目指す。そんな構造。

多様性の位相

洋画を沢山観ている。レストランに入るブロンドヘアーの女性を、気の弱そうな男性がエスコートする。ドアを開けて、椅子を引く。迷いが無い動作。受ける側の女性も空気が開けてくれたかのように入っていき、当たり前のように椅子に座る。どうしようか、って言わなくともシャンパンがいいよね、って那由多ほどある選択肢の中から、スマートに男性がチョイスして飲む。

中国から来た留学生が志望する企業に片っ端から「仕事をくれ」のメールを送っているという。返信の文頭には「お世話になっています」と書かれている。断られたことを嘲る意図も込めて「私は何もお世話してないのに」と不思議がる。エスコートも定型文も初心者には理由が分からない。誰かが始めて、また誰かがそれを真似してそのうち、それをやらないと失礼に値する、までに至る。お作法。

畳の敷居は踏まないのがマナー。座布団を踏まないのもそう。どれも理由を知らないと、守る理由が無い。知らないから守らない。

 

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1.はしがき

文化の突端にいるのはヨーロッパ諸国であると思う。アジアが遅れているのでなく、積み重ねた文化の量が多いからだと考えている。文化には初心者殺しの側面が必ずある。説明がされていないのに、誰しもが守っている規範。知らない人からすると異常で、でも皆が従っているから大事なんだろうな、と思うしかない。アフリカのどこかの国の部族は15歳になったら高いところから飛び降りて、大人になった証とするらしい。僕には訳が分からない。だけど、黒くてしなやかな体を持つ彼らにとっては大事なこと。

 

2.多様性

東京の街を歩いていると、今ここで僕が服を脱いで暴れても誰も「大丈夫ですか」とは声を掛けられないだろうな、という無関心と安心が同居したような感覚になる。実際にやったら最初に話しかけてくるのは警察だろう。服を脱いでも早足で通りすがる人からは、そういう人なんだな、としか思われない。ある意味多様性が守られている。どんなに露出度の高い服を着ても、エルトンジョンみたいな派手な眼鏡をかけていても「そういう人」。ピアスを顔中に無数に開けた人の生活は、きっと荒んでいるだろう。チェーン店にいる死んだ顔をしたおじさんは、きっと寂しい。本当のところは分からないし、分かる努力もできないのだけれど。

人の生き方や個性を「多様性」と一括りにすると、同時に無関心が発生する。自分には理解が出来ないだけで、きっとあの人も幸せなんだろう、って。その論理は完璧で、誰にも批判される理由が無い。そうなんだけど、顔に穴を開けるのはきっと今の生活に満たされていない。美味しいはずのご飯をしけた顔で食べていたとしたら、きっと生きることに疲れている。

宇多田ヒカルが言う「オフィシャルな野望」は「幸せ」。人は幸せに生き続けるために生きている。それは皆同じだと思う。それは孤独でないことや前向きであることが要素のひとつ。もちろん各個人がどう捉えるか、偶然嫌なことが重なったのかもしれないなんだけど、多様性という言葉で見えなくなっている気がする。色んな生き方がある社会であっても、「幸せ」を通底している概念は存在する。そんな風に考えている。

 

3.幸せの文化

韓国人の知り合いは普段持ち歩いている手帳に家族の写真を入れている。理由を尋ねると「家族が大事だから」と当たり前のように言う。イタリア人はママが大好きで、アメリカ人は家族とハグをする日常が当たり前。当たり前すぎて誰も説明はしてくれないけど、家族は大事なんだと思う。親は自分が産まれた唯一の理由。兄弟は親の次に長い時間を過ごした人。祖父母は自分が産まれた理由のそのまた理由となった人。親戚は自分が産まれた理由となった人が長い時間一緒に過ごした人達。言葉にしてしまうと、儚いんだけど、それに勝る理由は滅多にない。もしそれを越える理由があったのなら、その人も大事にすれば良い。それはきっと自分をもっと幸せにする要因。

近しい人を大事にすることは幸せのお作法であって、言葉にするとあまりに頼りが無い「文化」であるように思う。

 

4.オープン

「言葉にできない」は即ち再現性の無さ。何を表すでも、言葉にした瞬間にそのものから飛び出た、それを現す音声に変換されて相互に働きかけ合う。言葉は変換機で、通さないものは「代替が利かない」「その人」そのもので無ければならないもの。それは代わりがとても利く社会においては弱弱しい。派遣会社を使えば次の日にでも代わりの社員が来て、マニュアル化された社則やルールを、一定時間数教えれば「代わりの人」が出来上がって穴を埋める。リソースもクラウド化されていれば、どこであっても誰であっても情報にアクセスできて、場所や時間を問わない。オープンであればあるだけ価値が多くの人に共有されて、「その人が死んだらもう二度とできない」リスクが回避される。オープンさ、代替可能性はとてもいい事であると思う。松屋のノウハウがあれば、どこでも誰でも牛丼大盛りを客に提供出来てそれなりに美味しい。左に傾いた技術批判や文明反対をしたいのでなくて、再現可能性は素晴らしい。言葉にすればするほど、広がりを保持して文化を維持発展させると思う。

親子関係や、家族関係においてもオープンであること「代替可能の論理」は有効だろうか。母親の「私でなくとも子供は育てられる」という言葉は子供に通じるだろうか。「私はあなたを養育しません」という態度を理解し、代わりの養育者が現れたとしても、目の前から母親がいなくなった事態は消えてなくならず、結果として子供の心に穴を穿つことになる気がする。

何が言いたいかって、特に親子関係においてのリスク回避的な「代替可能」は、望んだような結果は生まず、逆に遂行矛盾を生んで、よりリスクの渦の中に深くはまり込んでいく。そんな構造になっていると思う。

 

5.守破離

前節までに書いたことを3文字で表すと守破離。守って破って離れる。そう表すと年を取ると保守派に回るよね、はいはい。と思われるかもしれない。間違ってはいないけど、伝えたいのはそうじゃない。もし書いてきたようなことが、もし僕と保守おじさんらを含めた一定数の人の意見であったとしたら、サンプルにしない手は無い気はする。

烏合の衆がいくらいたところで、思考の材料にならないという意見もあるだろう。インディビジュアリズムと拗ねて孤独になることは違う気がするけど、それを変えようなんてことは思わない。は強く生きて欲しい。僕はやり続けられない。創作なんかは孤独や絶望が必要だというのもわかるしね。ただ、辛いから素晴らしい、は間違っていると思う。絶望の美学でさえも表現すること、生きることを楽しんでほしい。 

 

去勢

実家にはシャガールが飾ってある。大きくない壁に「ロミオとジュリエット」。母が父と別れた時に「何でも持って行っていいよ」という言葉を真に受けて(それとも悪意でというべきか)リトグラフでも大層な値段のする魔笛と共に引っ越し屋に頼んで札幌まで運んできた。魔笛はある時、逆らえない条件を付けて父が返せと訴えてきたので手放した。もう一方はいまだに家の壁に堂々と掲げられているはず。若夫婦だった2人はどこかのデパートで、これから始まるお金持ちとして在り続ける根拠に買ったのかもしれない。表向きにはきっとそう。買う時も、飾る時も裏側の理由に気づいていながら、気付かない振りをしていたんだと思う。2人の悲哀を、あるいはこれから起こる女性の自己犠牲を暗示する絵を飾るその行為。僕には知る由も無いし、これからも飾ってある理由や意図を思案する機会は訪れない。

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1.はしがき

親子関係に悩んでいる気がする。もやもやといつまでも離れない不快感。次兄は母と暮らしていて一緒に仕事をしている。僕は長野で1人自分の心や親子関係について学んだり、書いたり悩んだりしている。お互いに生活をウェブカメラで覗いてはいないから、実際にどうなのかは分からない。比較すること自体がそもそも、とも思うし、拘泥することに拘泥しているとも思う。暇の産物かもしれない。ただ、気になっていることは事実で、その内実を言語化したい。元々母や次兄なんて居なかったことにすれば一時は楽になる。それは睡眠改善薬や精神安定剤と一緒で一時の回避。逃げ回った先にあるのは岡田尊司さんの言う「回避性愛着障害」だと感じる。一個乗り越えて、乗り越えた先はもっと空虚だった、では笑えない。もっと包括的に、具体的にアプローチをしないといけない、という使命感がある。

 

2.去勢

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斉藤環さんの本を読んでいる。ラカンを基にした精神分析、と言うと難しい。そもそも精神分析への誤解はフロイトにあると思う。エディプスコンプレックス、去勢、そんな前近代的な暴力的な言葉で父と母と子を考察していて、受け入れがたい。哲学を勉強していると必ず彼が出てきて「何を言ってんだこいつ」とイライラしていた。ラカンコフートと並べて読むと、なるほど日本人受けする言葉遣いでないだけできちんと精神界隈の礎を築いた人物だったのだと偉そうな理解をする。もしフロイトアレルギーがあるのならば、彼だけで理解しようとするのでなく他の精神分析と一緒に並べてみると良いかもしれない。

斉藤環さんの「生きるためのラカン」がHP上で公開されている。そこで書かれている「去勢」の概念は以下の通り。(https://www.cokes.jp/pf/shobun/h-old/rakan/07.html

・それはエディプス期に起こる。
・それはまず、自分がファルス(ペニスの象徴=万能感)であることをあきらめることである。
・次に、自分がファルスを持つことをあきらめることでもある。

 今読んでいる「ひここもりはなぜ治るのか」と並行して読んでいると、学びが深まるような気がする。本に飽きたらHP。HPに飽きたら本のように交互に読む。

僕の家はファルス(=万能感)に溺れ切っている家。家の中が世界の全て、家の中で素晴らしければ汚い世界に漕ぎ出す理由が無い。氏の本にも多く書かれているように、母と同一であるがゆえの何でも叶う万能感。僕の近親者への理解が深まるような気がする。兄は今母と暮らしている。彼の言葉を借りるなら「たまたま気が合ったから一緒に暮らしている」。嘘ではない。本当に気が合うのだと思うし、兄弟の中で母と一緒にいるのが楽なのが次兄。ただ、それをフロイトの考え方に照らし合わせると、互いが去勢されていない状態。同一であること、母が持つ叶わない父と同一になりたいという思いを、母は子供で満たそうとし、子供は母を満たそうとする構造が母子同一の感情。

知り合いの男児が時々女の子になると言う。女性になり切ってトイレに行って、くねくねし始める。母が小さい頃ちんちんが欲しいと言って、親戚のおばさんと一緒に百貨店で「ちんちんありませんか」と探して回ったらしい。去勢がなされていないから、ペニスを欲しがったり女性になったりするんだと思う。僕は僕で、時々自分の中の女らしさが出てくる時がある。理由は分からないけど、女言葉を喋ることで心が安定する。自分の中にある女性性が満たされる感覚。女の子になる彼も、僕も父親と同居しておらず、去勢の機会を逸しているのかもしれない。

 

3.変換作業

ちんちんを切り取る、というと怖い。女性の割礼はもっと怖い。宗教的、暴力的な意味合いで使用されるので、違う言葉が必要。去勢は「他者」から「強制的」にむしり取られるんだけど、もうちょっとソフトなイメージ。

「大人になる」「成長」「清濁併せのむ」そんな言葉が出てきたけど、何か違う。「万能感に浸っていた子供が、自分の無力さを知る」だと、少々救いが無さすぎる。無力さを知ることが即ち、自分自身を知ること。そうなんだけど「無力」は「去勢」位に強い言葉。何とか使わないでいきたい。

漫画シャーマンキングで、朝倉葉のお父さんが「年を取ると天井のシミが見えるようになる、自分が届き得る限界が分かるようになるんだ」と言っていた。近い。単に「自分を知る」だと喪失感が伝わらない。子供で居ることの甘美な蕩ける時間を失なう要素が無い。去勢を経た人物は、自分の無力さを知る。何も出来ない自分に浸り続けられはしないもので、必ず次の無力さを知る旅に出立することとなる。そのスタート。一度切り落とした陰茎は生えてはこないけど、無力さを知ったことで、自信や自己意識は大きくなって、許容量が増えて自分の元に帰ってくる。意図せずとも、小さくいようとしても必ず大きくなって帰ってくる。そんな不可逆性の中に身をなげうつ行為。

これが適当か分からないけど、近い概念って「失恋」だと思う。熟れ切った洋ナシのようにとろとろになるような許し合う時間を経て、乾き、そして離れていく。その一連の流れによく似ている。