僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

外連味ループ

今日は天気が良い。まだ外に出ていないけど、きっとあったかいんだろう。ぼんやりしながらまとまらない思考をまとめるために、エスプレッソを淹れた。これでコーヒー豆ラストだ。苦くて美味しい。

苦いのが美味しいって、大人の嗜みだよね。元々毒に気が付くための味覚なのに、こうして常飲している。コーヒーって、何か分からないけどストーリーがあるって思われがちでインスタとかに書かれがちで、それは僕にとって好ましくないんだけど、意外と芯を食ってるからインスタも悪くない。

コーヒーが何でおしゃれさの代名詞になったんだろう。って最近考えている。カップが素敵?それとも飲んでいる人が格好いい?

コーラとかビールはおしゃれ部門に入れてもらえないけど、消費量でいったらコーヒービールコーラは世界でもかなりトップを争うものだと思う。

あ、わかった。「こだわり」が格好良いんだ。コーヒー。

コーラに職人がこだわった云々って聞かないし、ビールも飲まれるのはアサヒとかそういう大衆酒。でもコーヒーは大抵、ブラジル産のブルーマウンテンを使った酸味と苦みが織りなす複雑な味わいとナッツのようなフレバー感。それを店主がハンドピッキングで丁寧に欠けた豆や虫食い豆をはじき、焙煎をしたのち3週間寝かせてハンドドリップで丹念に淹れたコーヒーです。

みたいな、能書きがある。それがきっと射幸心をくすぐるんだ。僕も大好き。

 

コーラとビールと並ぶものは缶コーヒーなんだ。それだと同列の感じがする。文化として一般に受け入れられていて、恥ずかしげもなく飲まれている。

 

丁寧に淹れたコーヒーは誰もがごくごく飲まないからなのか、飲めないからなのか、能書きや付随したストーリーが多い。

特定の誰か批判する意図一切ないけど、要は外連味は阻害感なのかって思う。文化として受け入れらていないものが、滔々と講釈や雰囲気などを頑張って作る。外連味。

本当は、僕も外連味を外したい。早く世間とか社会に馴染んで、自分は自分だよ!って悠々と肩で風を切りたい。

こうやって自分のことをべらべら語るのは野暮だとわかっている。ある意味自分を語るという外連味。あぁ面倒くさい。

 

昨日からTwitterで話を聞きますよサービスをやろうと思って、元からやっているTwitterをそのアカウントにしてみた。

やろうとした途端、これまでの知り合いとか色んな人に恥ずかしいとか誰かに嫌な噂を言われているような気がして、不安定になった。

更には妻に謎の小言を囁かれて、限界がきた。お風呂も入らず歯も磨かず20時半に布団に入って、泣きながら携帯を見ている間にいつのまにか寝ていた。

3月頃の僕に戻ってしまったら、僕は死ぬしかなくなる。それが唯一の希望だった。心がぐちゃぐちゃになってもこれまで続けてこられたブログを書けさえすれば大丈夫だって思っていた。

 

ベッドに入っている間、頭の中はずっとオーバーヒート状態で「死ぬべきか」「いや生きるべき」「でも今はしんどいよ」「じゃあどうするの」「状況を大きく変えるしかないよ」「でもそんな勇気も体力もないよ」とぐるぐるぐるぐる思考が、あっちこっちにいってひとつもまとまらない。

駄目な意味でのポップコーン現象が起きまくって、どうしようもなく思考が統制できなくなった結果、寝るしかできなくなった。

ようやく起き上がって、今ブログを書いている。でも頭があんまり回らなくて、全然はかどらない。それでも書こう。

そう、こういう日には自分を鼓舞する意味でも整理する意味でも、やりたいことを書いておいたほうが良い。多分。

 

僕がやりたいのは、今しんどい人が、どうやってしんどくなくなるかその普遍的な方法を知って、皆にそれを知らせたい。

普遍的というのは曖昧でずるい表現だな、と我ながら思ったので書き直す。僕ができる限りのやり方で出来るだけ真摯に、誰が見ても分かるように、という意味で普遍的。

 

だけど、このブログは皆に見てもらいやすいようにはできていない。それは自覚があって、それが僕にとっての障壁。

このブログを読んで、あぁわかるなぁ。と思う人はきっと僕に近い人。そんな人ともっと話をしてみたい。

 

どうか届きますように。

 

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ブルーボトルコーヒーエスプレッソ。酸っぱい。けどお洒落。