僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

思考か行動か

昨日もタリーズに行って、エスプレッソを飲みながら本を読んだ。大体そういう風に過ごす。

最近は朝起きて、まず窓と玄関を開けて空気の入れ替えをする。それから床掃除をして、物を整理して妻を送り出す。

それから、ブログを書く。1時間弱で書き終わってそこから色んな作業。

作業が済んだら、タリーズまで歩いていく。いつもの店員さんが又来たなって顔しないでくれるのが助かる。いつもいるコーヒーお替りおじさんは僕を見て「アッ」という顔をする。

読みたい本を物色して席に着く。17時くらいに妻と合流して夜ごはんの買い物。

夜ご飯を食べて、だらだらして1時間くらい瞑想タイム。そして就寝。

 

書き出してみると、大したことやってない。最近心がけているのが。行動に思考をあまり挟まないこと。

ノータイムで手を付けてみて、やめたくなったらやめればいいやって思いながらやってる。朝起きて掃除をするにしても、やるかやらないか、何をやるか。で迷っちゃうと嫌になっちゃう。まずやってみてどう思うか考える。

 

タリーズに行くのもそう。行くか行かないか迷う前に、まず歩き出してみる。嫌だったら引き返そうって思いながら。

そうして行動をすると大体いい感じに終わる。

 

それって、昨日読んだ千葉雅也さんの「意味が無い無意味」に通じることだと思う。

 

意味がない無意味

意味がない無意味

 

僕が今朝もした掃除に例える。 

「掃除」の持つ意図とか意味とかは無数にある雨のようだと。ほこりを取る、邪魔なものを取り除く等々。けども掃除という「行為」はその雨を止める。

『「キレイにしたいから」という理由で掃除をする』という意味として捉えてその無限に振り続ける雨を止めるのが「意味が無い無意味」であり、それが体や行動であると。(正確に捉えられているか不安)

 

思考を一旦は停止させないと何も始まらないと思う。人間は往々にして考えすぎてしまう。考える=ネガティブで、考えない=ポジティブが真理じゃないかと。

「行動のための思考」は、行き過ぎると煮詰まって心に影を落とす。「やるかやらないか」は突き詰めると「生きるか死ぬか」変換される。

だから、思考をするときは環境とかやり方を整えないと途端に死に追いやられる。良くなりたい、って願望のための思考な筈なのに、絶望に取って代わられる可能性を秘めている。「行動のための思考」は怖い。

こち亀両さんも「まずは生きるって決めてからじゃないと物事は選べない」って言っていた。金言。

 「思考のための思考」であればそうでないと思う。

哲学はその代表。思考をするための薪をくべる作業だと思う。その薪が多ければ多いほど思考の炎は燃え上がる。だから好きなんだ、と思った。

どちらかが全てではなくて、「思考のための思考」と「行動のための思考」は補完関係。

この本を読んで、あぁ僕は哲学家になりたかったんだなぁ。とわかった。それと同時に羨ましさと妬みと諦めがまざった感情が去って行って、胸をすく思い。