僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

「地域」が分からない

三重県内を電車で走っている。いくらか南に来たせいか、ぱっぱっぱと通り過ぎる緑が濃い。空の色も見慣れたものより紺に近い気になる。

ゴールデンウィーク初日で自由席の旅路なのだけれど、案外座れているし眠れている。うん、大丈夫なはず。

 

昨日は支度でてんやわんや。一日中パッキングしたり、チケットを買ったり。旅慣れはしている方だから、荷物は最小限。ベッドの中で思いついて、エスプレッソメーカーを持っていくか迷ったけれど、忘れてリュックに入れなかった。

 

それでも、タリーズに行く時間は確保した。本を何冊か読んで、妻と合流。

 

インゲンと人参が良さそうだったので、買う。豚軟骨も。家にあるもやしとほうれん草とでナムルを作って、圧力鍋で軟骨を角煮みたいな味をつけてビビンバにした。

出かける前日に作るものじゃなかったけど、美味しい。後半は酢を入れて味変。

 

一旦は妻と過ごす最後の日だから、お菓子とお茶でデザートタイム。

無印で買ったフロランタンが美味しくなくて悲しい。スノボールクッキーもイマイチ。

 

僕の家は長野にあって、三重に向かって電車に乗れば乗るだけどんどん遠くなる。

僕の戻る場所ってどこなんだろうって旅情のせいで思う。

母と兄が住む札幌は、僕が育った場所とは全く違う場所になっている。僕は門外漢。

父の住む仙台はどうだろうか。全然違う。好きな街だし美味しいものも沢山あるけど、今の僕を受け止めるホールド感は無い。

上田なのか。一番近いけど、そう遠くないうちに裏切りそうって思っている。

 

そう考えると、僕は場所と人にアイデンティティを求めない人。

 

対極にフットサルの知り合いは、地元で育って地元で働いて地元で死んでいく。恐らく。

既に3回も県を跨いでいる僕には信じられない感情。郷土愛。いつか感じるようになるのかな。

 

どの企業もどのサッカーチームも、地域貢献や地元密着を謳う時代になった。

 

出身が一緒トークが盛り上がるのは経験があるけど、地元に貢献してるなって経験をしたことがないからわからない。

嫌味じゃなくて、家の周りのゴミを拾ったら分かるのかな。

 

今ちょうど人間失格を読んでいて似たような箇所に出会う。世間は許さないぞ!と謗りを受ける竹一。それを受けて、世間とは個人じゃないかって思うようになったと。

世間も地域も実体が無い。その人が見知っている人の傀儡。

 

要は近くにいる人を誇りに思うかどうかってことなのか。好きだけど、それを地域貢献って言葉と行動に変換しない。ご飯でも奢る。