僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

雨と事件とパン

今日は、雨が断続的に降るでしょうとアレクサが言っていた。

雨は好きじゃないし、朝から嫌なニュースが目に入って気分が悪い。

小麦粉にも弱い。パンを多めに食べると胃が疲れて眠くなる。夕方食べたパンにやられた。

 

雨と事件パン。

 

雨は仕方がない。パンは気をつける。

事件も犯人が自害してしまったから、どういう動機なのか分からない。不可解。

決して許される行為じゃない。他人に迷惑をかけることはあかん。しかも子供。最低最悪の選択をした。

 

最悪の行為だって自覚はあったと思う。その上でそうせざるを得なかった、彼の心境は如何許りか。

起こったことを犯人だけの所為にして、個人を揶揄するだけの言説は、あまり好きじゃない。

個人に責任が追求され続ける社会では、追い詰められる人がもっと増えて、こういう事件がより起きやすくなると思う。

僕も犯人は最低だと思うけど、社会で起きた以上は、社会で包摂する他ない。が僕の意見。

 

想像でしかないけど、犯人は社会への怨嗟に悶え続けた人生だったんだと思う。

 

こうありたいって自分の像と現実の自分との乖離が生じ続けて、意思と意識が空転し続けたんだと思う。

この想像力は優しさなんかじゃなくて、自分も同じ世界にいるって感覚。

 

乖離がもたらす回転は、永遠には回らなくて、いつかどこかに向けて発散されなきゃいけない。

意思の自分と、現実の自分とを合致させる欲望。

僕だって、無限に空回りはできない。

カラカラ音を立てて、徐々に乾いて段々朽ちていく。

無限に空いてる理想と現実の差を、無呼吸で埋め続けることはできない。

誰かにわかってもらって、ちょっと心が埋めて、またカラカラ回してっていう連続じゃないと、いつかは枯渇する。

 

彼の思考も僕の思考も、誰にも分からないなのか、誰にも分かってもらおうとしてないだけなのか。

どちらだとしても結果は一緒で、今の時点では理解されない。それが厳然たる事実。