僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

青空

最近よく聞いているのはブルーハーツの青空。

札幌にいた時の、職場で誰かが歌っていて、それから好きになった。

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台湾の太魯閣号に乗った時に撮影した写真。

海も、空もキレイ。

関係ないけど、太魯閣号は我が上田付近で走っている(らしい)。何かの縁を感じる。

 

僕は、こだわりが強い。味や見た目、その他諸々。

 

中でも、自分と家族に対するこだわりが強い。自分はかくあるべき、と理想の家族像。

精神科で書いた樹の絵で、沢山描いた葉っぱをみて医者は「こだわりが強い傾向にありますね」と言った。暇で沢山描いただけなんだけど、きっとそうなんだろう。

 

こだわりってなんだ。って考えている。

同じ方法で何度も何度も失敗して、それでも駄目で、打ちひしがれて、それでも同じ方法を取り続けて、雨垂れ石穿つのを待つこと?

それともこだわりがあるゆえに、方法を変え続けて何度もトライし続けること?

後者がスマートなんだろう。2019年に原典主義、原理主義は流行らない。

 

こだわりの「教典」は、自らの心だと思う。

心にスマートさなんて求められるだろうか。結果が出ないからって、次に行こうぜ!って心に投げかけられるだろうか。

そんなに心って柔軟にできていないと思うんだけど、僕だけ?

出なかった結果を受け止めて、じゃあ違う方法でやってみようね、自分。って言える?

僕の心はもっと子供にできているみたいで、嫌だって言う。同じやり方で、同じ心持ちで望むことを叶えたいって思っている。

 

昨日のテレビで、凶行に及ぶ人を「子供時代に複雑な環境だった」「普通の人が人生で1回2回しか遭遇しない不幸を週1で遭ってる」「結局は家庭環境」と言っていた。

そう思う。全く異論を挟む余地が無い。

もし「環境がそうさせた」が是なら、複雑な環境で育った人は「人を殺してしまう人になっている」も、非難の対象にならないでしょう。(悲しいことがあって尊い命が失われた、と別の議論として)だから、自己責任の範疇なんてとうに越えていると思わざるを得ない。

 

僕の自分に対するこだわりだって、家族に対するこだわりだって、きっと家庭環境に依拠している。

愛する人に言われたがゆえに「こうしなさい」や「こうあるべき」を守ってあげたいって今でも思っている。絶対、本人は忘れているのに。

愛が足りていないゆえの、こだわりだと思う。

母も、父も、祖母も祖父も。双子の兄も、長兄も。僕を襲う体の空虚感も、そう。オナニーじゃ満たせない、愛そのもの。それの不足。

不足ゆえに起こる、思慕の感情の行き違い。修正できない。感情も経済も余裕のない生活では。

余裕が無いから、すべてを込めた、渾身の一発を相手に放つ。これだけ込めれば届くだろ、って。これだけ思いをこめれば、何かが変わるだろ、って。

 

けど、そうは世の中できてない。届くかどうか、その判断は言葉の意味や、内容じゃなくて、「誰が言ったか」。その人そのもの評価、振舞や全てを含めた総合評価に委ねられる。

 

だから、「家庭環境が悪いんでしょうね」って軽々しくいってくれるなよ、テレビ。

世の中、運ゲーだってわかってるけど、外れたって冷笑すらされないのが、理なの。

冷やかしてくれよ、関心持ってくれよ。僕がこんなに苦しいのに、何の感情も沸かないのかよ、世の中。

 

外は関わりなく青空。天気ですら、僕の心の言うことを聞いてくれない。そうできているらしい。

 

美しい青空の下で、カッコつけた騎兵隊の愛するあなたに、乾いた銃弾で、僕の体を心ごと撃ち尽くしてほしい。