それそのもの思考
昨日の夜ご飯は、スープカレー。
肉なしだったんだけど、カツオと昆布のダシを利かせたら美味しかった。
スープカレーって、歯ごたえが無いからか沢山食べちゃうよね。一緒にから揚げとか食べたくなる味。
最近、「それそのもの思考」に嵌っている。
スープカレーは「スープカレー」と呼称するしかない。当たり前。「スパイスの入った液状の食べ物。北海道が発祥とされており、現在は日本各地に独自の嗜好を凝らしたものが作られている。」は野暮。そうじゃなくて「スープカレー」。思考を挟む余地が無く、スープカレー。圧倒的スープカレー!!
悲しい気持ちになると、「今僕は悲しい」(それ以上でも以下でもない)(危険信号なら僕の体が勝手に対処をしてくれるはず)(だからぐずぐずするほうがしんどい)
っていうカッコの中身を、処理せずに「悲しい」と感じているし、そう感じている自分の体や心を観察している。
悲しいことなんて存在しない!とか、ネガティブは必要ない!って言うのは簡単だけど、やっぱり僕の生きる世界では悲しい事はある。
大事なのは、悲しいという事実から目を背けないことだと思う。
「悲しい」は「悲しい」以外の何物でもないし、自分がそう感じているんだからそれが唯一無二の真実。
「それそのもの思考の汎用性」は、悲しいにのみ使われるわけじゃない。不安もそう。不安に思っているね、僕。不安ってこんな感じなんだな。不安以外では表せないから不安って言うんだな。って思う。
不安を解釈したり、論評すると、無間地獄が待っている。子供時代のあれこれがこうこう影響して・・・!それが小学校時代のトラウマと重なってうんぬんかんぬん・・・!
って不安っていうたった一つの感情、もっというと脳の電気信号によって死んじゃいたくなるくらいまでに追い込まれる。
だから、悲しみも不安もそれそのものとして受け止める。
思考停止でもなく、かと言って過活動でもない、一旦停止が「それそのもの思考」だと思っている。
「それそのもの思考」について書いているうちに、もう少し考えが発展した。
そういう思考法しかほとんどしない人もいる。稀有かもしれないけど。
人付き合いは、感情のやりとりだと思う。今、私はあなたと一緒にいて嬉しい、とか嫌だ、とか。
「それそのもの思考」は、言葉になりにくい。人といる時にそれをやっちゃうと、会話は成立しない。
究極的に言えば、言葉なんて、卑しくて、俗っぽくて、取るに足らない、下世話な振舞い。それは分かる。ベラベラ喋るのは、まぁ下品。
天皇陛下が、「いやー私はね、今年で85歳なんですよ!!耳がね!悪くなってきてね!聴こえないんですよ!ジャパネット高田で補聴器買った方がいいかね!?」なんて言わないと思う。きっと、補聴器が欲しい時は、召使い的な人にそっとお洒落な手紙で言うか、召使い側が気を利かせて用意するんだと思う。
日本人的な「佇まい」で相手に分かってもらう。そっと婉曲な表現で緩やかに伝える。はんなり。
それがコミュニケーションであって、数が多いだけの言葉なんて聞くに堪えない。やめて!ドア閉めて!!そこの汚い犬家に入れないで!!私の心に意味のない言葉を勝手に侵入させないで!!そんな感じ。
空き樽は音が高い。
言葉の多さも、少なさも、どちらか一方が良いなんて言うつもりはない。
でも、「気高い口数の少なさ」と「会話をエンジョイする」って、僕にとっては別。
「お前最高にクールだね」って何度言われたって嬉しい。愛情だって、何回確かめたって、減らないし嬉しい。
もしかすると、確認したくなるのは、不安だからなのかもしれない。
でもさ、その不安自体良くない?不安だって感じているんだもん。
きっとだけど「それそのもの思考」は、ガード戦法。
守らせちゃっている、ってことなのか。はて。