僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

死のルール

時々、体中の毛を剃りたくなる衝動に駆られる。

一昨日は足周りの毛を全部無くした。この衝動は、頭とかにも及ぶことがあって、髭剃りで坊主にしてしまいそうな気になる。ひげを剃って衝動を抑える。

 

いつも思うんだけど、ネガティブなものってエネルギーが猛烈だと思う。

最強なのは死。それだけじゃなくて怪我とか、病気とか、不幸とかって人を引き付けるものがある。小学生が「死ね!」って簡単に言えるのは(身近じゃないからというのはもちろん)、エネルギーの強さ≒面白さってことなんだと思う。

ドッキリだったら、派手であればあるほど面白いし、別な世界にいざなうディズニーランドはやっぱりすごい。

特に若いうちは、パワーを持て余しているから、ネガティブほとばしるワードをチョイスできる。

そのエネルギーの正体って、「死」が持つ意味合いだと思う。死は強烈。誰も経験したことが無いのに、誰しもが必ず経験する死。

漫画デスノートでは、「死は無になることである」と書いていた。けど、無を認識するには、無でいられない。本人か誰かが認識しなければ、無であるということは理解できないから、僕はあんまり信じていない。

人は死ぬ瞬間、そのストレスやら何やらを和らげるために、時間を遅く感じさせるホルモンを大量に出すらしい。なので、死の瞬間、その刹那を永遠に感じ続けるのが、死であるという言説を聞いたことがある。これも眉唾もの。

人間が分かっているのは、生まれた以上、必ず死ぬこと。RPGでボスを倒したと思ったら、回復も無くもう一回同じボスを倒す、みたいなクソゲー以上に理不尽な、死というルール。

 

逆にポジティブって儚い。

いくら前向きに生きよう!って言っても、人類は皆死んでいく。そして皆それを知っている。バッドエンドを迎えることが分かっているから、空元気みたいな、実体の無い言葉や態度になりやすい。

ホスピスにいる老人に「さぁ、前向きにこれからも生きていきましょう!!」なんて言う人はいないと思う。死ぬことが分かっているから。他人は他人の「死」を眺めることしか許されない。

死の前では「愛」も「勇気」も「友達」も、無力。アンパンマンもきっと死の前じゃあぐうの音もでないだろう。

それくらいポジティブはネガティブに比べて、圧倒的に弱い。だからこそ、量が必要だと思うし、その場にいる人が「そうだよね」ってならないと、死神がすぐ隣で笑う。

宗教と同じ。同調圧力的にポジティブは存在する。イスラム教徒に豚肉を食べさせたって、健康に害はない。でもその人は怒るだろう。なぜかって「神様を信じるために、制約を課してるんだから、空気読んでくれよ!!」ということだと思う。

 

 

仏教では一切皆苦というくらい、人生は苦しみに満ち溢れているという。それくらい、人は、沢山の犠牲の上に胡坐をかいて生きていると思う。原罪と言われるやつ。夢の島にあるごみの山ほどのネガティブの上に、ほんの少しのポジティブな座布団をひいて座っている感じだと思う。

 

死生観が、どうやら大事みたい。死ぬことがポジティブになれば、ネガとポジの構図、逆転するんじゃないか。