非論理の力
中学時代からの友人が、遠路遥々東京から長野まで赤いプジョーに乗って来てくれた。
彼と会うときには、安居酒屋で1番安いボトルを入れて、きゅうりなんかを肴に
、延々と話し続ける。昨日は、お互いの身辺の話から、経営判断ってどうしているんだろうって話、下ネタ、など。18時から会って、深夜2時まで6時間、ずっと話し続けていた。
彼には付き合っている彼女がいて、結婚を迫られているという。同僚でもある彼女は29歳でそろそろ30歳。焦りなんだろう。
しかし、彼らの職場は忙しく、結婚したところで、子供を育てられる環境にならない。彼からすると仕事を辞めたがっている彼女が、転職をすれば子供を育てられる環境になるんじゃないかという意見。
それに対して、彼女はとにかく結婚して欲しいし、子供も欲しいし、仕事は辞めたくない。これらは感情だから言葉にして説明ができないと。
恐らく、彼女の「言葉に出来ない」は本当なんだろう。男性がセックスをしたいというのも、言語化してみろと言われると難しい。それと同様に女性には女性の「言葉にできない」があるんだと思う。知能指数を下げて、論理的思考を放棄させてまで自分と人を動かそうとする、「本能」みたいなもの、恐ろしく強烈。
幡野広志さんの「ぼくたちが選べなかったことを、選びなおすために」を読んでいる。
カメラマンである幡野さんが、ガンと診断される。煩わしい同情の電話から逃れるためにブログで病気を公表したところ、思わぬ繋がりになり、取材と写真の旅に出る話し。
彼は当然死を意識しているのだろう。一見不幸に見える境遇でも、選択をし続けて、行動をし続ける。それは死期を悟ったからでなくて、元々そうだったんだろう。
思えば、僕を含めた誰もが長短はあれど余命生活。早いか遅いかその違いでしかない。
森羅万象一切、何であろうと関わりがなく、自分で自分を認めて、自分を奮い立たせて自分で動くしかない。自分の命は自分のものだから、自分でコントロールする他ない。アンコントローラブルな他人や社会も、思いがけず訪れる悲しい出来事も、自分が納得さえすれば少なくとも自分の中身は操縦し続けられる。そんなことを考えた。
翻って僕の話し。とあるブログで、気ままに過ごした方が良いよと書いてあった。頑張るんじゃなくて、自分を満たす。嫌なことはしない。そうしたら人生が上手く回っていきますよ、みたいな。
そう思えば、好きなことって何だろうって久しぶりに考えた。
フットサルとか、筋トレとか料理とか…。
「好き」の反対は「無関心」とよく言われる。僕から見ている世界では、タレントが議会選挙に出ることは、ほとんど無いものと同様。ただ、この例えは、ここで出しているということは、少なからず関心があって、ここに出ないことが本当の意味での無関心。存在しないから、僕の目にも耳にも入らない。
そう考えると、世界は「好き」でしか構成されていることに気が付いた。僕の見えている世界は、僕の「好き」で溢れ返っている。
警察を呼ばれた日から、口をきいてくれない妻も、「好き」なんだと思う。カゲロウみたいに薄ぼんやりはしてきているけど、まだかろうじて見えている。
昨日の飲み会で、「嫌いだから別れる!」と愚痴を吐いた。「嫌い」は「好き」の裏返しでしかなくて、そもそも嫌いという言葉自体が、今使われている語感と実際の意味が異なっている。
ただ、今の形を継続するのは難しい。僕は無条件に、家族に言葉を求めるし、心や体に寄り添うことを求める。無条件の条件を突きつけてしまう。
東京から来た彼は、「結婚するなら〜」「子供育てるなら〜」と彼女に話したという。論理的にはその通りだと思う。他人に非論理を押し付けても、無意味なことは、世の中の道理。同様に、他人の中の非論理は崩せない。彼も彼女も僕も誰しも非論理を所有したまま生きる。
ただ、条件も納得も要らないから、ただそうしたいからそうするんだ!という他人からすると非論理のエネルギーは凄まじい。
言葉なんかでは問いただせ無い、命の根源から出てくるものが「ただしたいからする」。
それをすることが、自分の命に対する真摯さで、それを選択し続けるのが人の生きる道なんだろう。
長くなったので、幡野さんの本で1番好きな一節で終わりにする。
「技術があがるっていうのは『失敗の回数が減る』というだけのことですから。大事なのは、自分が好きなこと、自分で選んだことを、もっとわがままになってやるっていう、それだけだと思います。」