優しさは路頭に迷う
札幌にいた時の仕事は、公民館と子供館足して2で割ったような施設の人だった。
若者を育てようね!みたいなストーリーを作る施設。効果の程は分からなかった。今考えると効果測定はどうしていたんだろう。
その施設の利用者で、印象深い人がいる。年の頃は僕と近くて、繊細そうな表情をする演出家志望の人。
最初は仕事終わりに来ていたと思うけど、いつからか夕方頃来て楽器を弾いて、22時の閉館までいるようになった。
今思えば、無料で長時間居られる場所は貴重だったんだろう。来館した際は、必ず150円もするコーラを買って飲んでいた。彼なりの入場料。
トランペットを吹き始めた頃から、大丈夫かな、と思っていた。
できる楽器の種類が増えるごと、彼の表情は曇っていった。明らかに自分の命と向き合いすぎている。
「優しいって言われるけど、それって『何も無い』って意味だからなー」と彼は言う。
当時の僕も同じ様なことを考えていた。何も主張ができないから、受け止めざるを得なくて、結果優しいと思われる。
ある時、彼の友人から「○○さんが連絡つかないんです!」と訴えてきた。
権限としては微妙なラインだけど、電話をする。繋がらない。実家の番号も分からないから、どうしようもない。
友人が帰ったあと、これも怒られるやり方で住所を手に入れて、仕事終わりに彼の家に行ってみた。電気はついていないけど、生きているなって思った。ビビりでこれ以上何もできず帰路に着いた。
地球上に「優しい」っていう行為は今のところ存在していないと思う。
何でも受け止めるとか、物腰が柔らかいじゃなくて、そうせざるを得ない優しさは、やればやるほど、その人の心に穴を開けると思う。
自分の中の自分というイメージがどんどん消失していく。視野というのは、真ん中が欠けているのが本当らしい。どういうことかわからんけども。
今日とある電車に乗った。向かいに「CIA」と入ったキャップを被ったおじさんがいる。目は大きく二重で離れていて、鼻も口も大きい。
その横にあるスペースから、車窓が見える。反射して鏡の様になっているから僕の姿が映っているのだけど、顔だけ見えない。誰かが顔をくっつけたせいで、油が皮膜となり、その部分だけ鏡の機能を失っている。
自分のイメージがこんな感じになっちゃうんだよな、って思った。
彼のような「優しい」人は、どこかのタイミングで行くあてが無くなる。冷静になれば、色んな手段があるのに。
きっとだけど、母親に優しくできなかった自分を罰しているんだって最近思った。一番愛している母親すらも優しくできない自分は、価値が無いって刷り込んじゃうから。
ただ、母と愛情の形がすれ違っただけなのに、原始的な欲求が満たされてないからその他の欲求も満たされない。マズローの三角のやつ。
僕は、母親と話すことから始めた。