僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

心の半分、体の半分

どうにも自分の心が欠けたような感覚がある。どこまで思考しても、欠落しているがゆえに辿り着かなくて、不快になる。その切り取られた心が何なのかを考える。想像でしかないけれど、それはきっと愛の不完全さであり、それに拘泥する僕自身に理由がある。

何か気持ちが満たされない、楽しいはずなのに楽しくない、そんな疑問を抱えている人が、その原因を探るためのヒントになればと思って書く。

 

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1.はしがき

映画を観てきた。「ハートビーツラウド」という作品。

音楽好きな父親と、その娘が別れを前に音楽を通して心を通わせる、みたいな作品。

褐色の肌を持つ娘が、いい声を出している。けど、シンセサイザーというのか、テクノっぽいというのかぴょんぴょんしたメカニックな音がどの歌にも入っている。それが気にくわなくてどうにも感情移入ができない。

父と娘の2人だから、どう考えてもバンド形式にするには人数が足りない。父親はギター。娘はボーカルとランチパッドを使って録音された音を出す。パフュームみたいな感じで、テクノ一辺倒だったらそれはそれとして好き。けど、情感たっぷりに愛や親との関係を歌う彼女の、悩ましい表情とランチパッドをぽちっと押して出てくる、ぴょんぴょん音はどう考えても合わないと思う。ギターだけじゃだめなのか、いや流行とかもあるよな、って考えて納得させた。

この映画では、母親は死別したという設定。父親は売れないCD屋さん。そういう背景もあって、娘は音楽よりも医者になる道を選ぼうとする。

そうだよな、やりたいことというよりも「現実的」な夢が優先される状況よね。と何か納得する。娘よりも「現実的」じゃないのは父親で、娘と一緒にバンドをやって成功したいと願う。お互いのことを慈しんでるからこそ、噛み合わないのよ。捉え方の違いで。あぁ虚しき。

 

2.悪口の果ては

母親と父親は、散々修羅場を経験して離婚に至った。悪態をつく母親の音声を、調停で有利になるように父親が録音をし、そのウォークマンを母親が文字通り噛り付き、もぎ取ったなんて逸話もある。最終的には慰謝料は無し、3人の息子は母親が引き取った。

お互い納得なんてしてない。母は、息子3人と札幌に行きシングルマザーとしての生活を始め、父は詳しくはよくわからないけど、彼曰く「人生で最低な時間を過ごしていた」らしい。

結婚も、破綻した結婚生活も、その後の人生も、父親のせいなんだなって思っていた。それは何でかって、母親がそういう風に言うから。「あいつは最低な男だった」「田舎もので云々」という言葉を、いくつもいくつも聞いて育ってきた。

父親と離れた後も、年に何度か旅行などで会っていた。その際に「何か持っていくものはある?」と聞いたら母は「帰って来られるだけのお金だけは持っていきなさい」と言う。

そりゃ、旅先で何があるか分からないから自衛のためには必要。だけど、母の言葉の真意は「父親はひどい男だから、何をされるか分からない」ということ。更に言うと「自分がひどいことをされたから、それを分かってくれ」。きっと僕らへの心配じゃない。

非情なようだけど、「母がされたこと」と「その後の父と子供の関係」には、もう接すべきポイントが無い。要は関係が無い。もし、本当にひどい人間だと思っていたら会わせなければいいだけだし、もし帰って来なければならないような状況にするのであれば、その約束なんて反故にしていいはず。

子供の僕らは「こいつは最低なんだ」「こいつは帰ってくることを選択してしまうかもしれないような人間なんだ」っていう言葉を胸にしまって、彼に会いに行く。

父としてはこいつら何でこんな俺に否定的なんだろうって思っていたと思う。まぁ引け目があるから離婚したわけで、その引け目と向き合うのも、別れた息子と会うということなんだろうけど。

問題は、父親を貶めることが、何をもたらすかだと思う。

母が、自分の夫に対して不満があることと、息子にそれを伝えることは問題の乖離がある。誰にも分ってもらえない、苦しんだ経験を誰かに話したいというのはすごく分かる。僕らだって母親がそういうんだから100%で聞く。誰よりの理解者だし、そういう存在が家族であると思う。

理解者であることと、養育されるべき存在であることは、相容れないと思う。

どっちにもなりたい。だけど両方にはなれない。

僕は母親と父親の半分ずつで出来ている。けど、僕の家にはその半分は存在しちゃいけない。そんな矛盾で、僕の体と心の半分は母からも、兄弟からも見えていなかったと思う。

 

3.味方

母は、長男が生まれた時に「ようやく味方が出来た」と思ったらしい。

対立し、統御できない夫婦関係の末に、自らがコントロールできる命が産まれたのは、彼女にとって希望だったと思う。長男は、喋れるようになる前から母親の話相手だったそう。そのせいか、長男は脳の発育も体の発育も早く、2歳でペラペラしゃべるようになったらしい。

僕らは母親の理想に近づけるように努力したと思う。「勉強はできる」「田舎は嫌い」「外国が好き」「男性はジェントルマンであるべき」みたいに、彼女は彼女の嗜好を吸収させようとしたし、僕らもそれを望んでいた。

これら列挙したものはどれも父親とは反対。父は勉強はできないし、田舎者。なので、その僕らを育てた趣向が「単に母親の趣味」であるのか、「父親と違う性質としての存在」との区別が僕自身もつかず「彼女がそれらを好き」なのか「父親の性質が嫌いだから反対が好き」なのか今となっては分からない。

思えば、両親の2人共が子供のまま、形式上だけ親になった。

当然、子供を持つ前に親としていられる人もいないし、親になったからといって完璧な親はいない。

そうなんだけど、親が完璧な存在であること(もしくはそれを求めること)と、親としての役割を自覚することっていうのは対立するようで、実は対立しないと思っている。一般論としては「親になったんだから」「親は子供を最適な環境に置くべき」っていう誰かの言葉が脳内を去来する。養育に必要なお金を用意して、のびのび育てられる環境を用意して、良い学校にいれて、って思ってしまう。それが出来たらベストなんだけど、ベストを用意するのが親の資格じゃない。

親としての役割って、今その場で出来ることを自覚して子供に提供すること。何度も言うけど完璧な子育てはあり得ない。だから、ベターを目指すべき。そのベターの形が「今できる最善を与える」を思考することだと思う。

 

4.否定の否定

父親も母親も未熟だった。それゆえに僕は困っているし心が欠けていると感じている。短く書くとそういう文章を書いた。ただ、そればかりを嘆いていても事態は変わらない。

困った時はアウフヘーベン否定の否定。対立構造にある概念の対立そのものを否定して、一次元上の答えをだす。

僕の中にある、父親を否定されたとしても、それに気が付いたのであれば、気が付いた人がどうにかするしかない。

母親にとって良い子でもなくて、父親にとって良い子でなく、自分にとって良い自分になるように自分を高める。それしか方法はないのかな、と思っている。