僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

「愛する」を考える②

毎日暑い。

東京は暑いと誰かが言っていたけど、恐らく上田の方が暑い。日差しの質が全く違う。

田舎だから日差しを遮る塵みたいなのが少なくて、太陽光線がそのまま地表まで降りてきていて、すごく強い。それが上田市

僕が上田市に来たのは、札幌の天気が嫌になったのが大きい。冬はずっと寒くて、夏は瞬きした瞬間にすぐ終わる。半袖シャツの出番が無い。

夏が大好き。半袖半ズボンに裸足にスリッポン履いてのバイクとか、薄着の女子とか。人生を謳歌している感に満たされる。

逆に冬の札幌は、生命活動が停止するような寒さと暗さ。人が暗くなるのって当たり前だと思う。知らないけどロシア人の鬱病罹患率って高そう。

 

ロシアを知る。

ロシアを知る。

 

 

そんな天気の良い上田に来て、そろそろ3年。大分長い間希死念慮が結構あった。暑くても寒くても、長く苦しめられた。

どうしようもならない感情が暴れて、手が付けられない。未来とか過去とかじゃなくて只々辛くて、呼吸するのが精一杯で、って言う日がずっと続いていた時期もあった。

 

でもここ数日、そんなこと一切考えない。考える暇も無いし、暇があっても考えない。そんなことを考える暇があったらもっとくだらないことを考えている。

というか、そのシステムから抜け出しているなと思っている。

状況は大して変わっていないけれど、何か気持ちが晴々しているとか、鬱々とかしているっていうんじゃなくて、一定水準をずっと保っている。

例えば昨日、5時半まで寝られなかったんだけど、気持ちは落ち込まない。「寝られねーぎゃー!!」って言いながら、ベッドでゴロゴロ。深夜三時のコンビニの店員は、段ボールを潰しながら僕への対応をしていても、「そうなんだなー」としか思わない。そんでもって、「ありがとうございます」と言える。

毎日作り置きしたカレーと、沢山炊いて保温しておいたぱさぱさのお米を食べてる。美味しく出来ているけど、毎日食べてたら飽きるかなーと思ったら、飽きない。というか、美味しいところしか見えない。昨日も食べたとか、コメがぱさぱさとかそういうところが見えない。気にならない。理解はできるけど、脳内に浮かんでこない。そんな感じ。

 

まんがでわかる 頭に来てもアホとは戦うな!

まんがでわかる 頭に来てもアホとは戦うな!

 

 きっと人は、1人の時間が必要なんだと思う。

他人が大事であれば大事であるほど、1人で居なきゃいけないんだと思っている。

その大事っていうのは自分の心の中を占めているかどうかってこと。

何をやっても頭から離れない、何をしてもその人の顔が出てくるってのは恐らく執着であって愛とか好きとかじゃない。はず。

 

そう、お気づきですか。愛のシリーズの前置きなんですよ。この長い序文は。

 

yashimaryoz.hatenadiary.jp

 

「フロムの愛するということ」もすごく参考にしつつ、沢山考えた。

 

(特に他人を)愛するということはまず自分を愛することだと思っている。自分を愛していないのに、他人を愛するというのは恐らく不可能。好きになることはできても愛することはできないはず。

そこで登場せざるを得ないのが、好きと愛することの違いだと思う。

 

「好き」って男性にとっては性欲だと思う。というか性欲です。はい。

男性が女性から「愛されている」と感じるのは、恐らく母性みたいなものになるはず。

 

愛する、もしくは愛し合うってなんだろう。

一緒に住むことなのか。子供を作ることなのか。育児を手伝わないからケンカになってそれでも一つ屋根の下に暮らし続けることなのか。

これらは要素でしかなくて、全体じゃない。愛することについてアマチュアすぎて、偉そうに言えないんだけど、僕が考えたのは、その人の全てを受け入れる・認めることなんだと思う。

 

「好き」はグラマーだったり、大きな二重の目が好みだったり、諸条件。

「愛する」は、自分が見えている範囲においての相手の全てを認めることなんだと思う。

それって、どういうことか。

好きで一緒に暮らし始めたら、実は体臭がエグイとか、トイレが長いとか。

まぁ一緒に暮らすまでは隠していたり、時間が経つと急に気にくわなくなる部分って沢山ある。山ほどある。

それを変えてやろうとか、好みに仕立てあげようとかする前に、まず認めることだと思う。

「愛する」って「そういう性質が存在すること、そういう性質を持つ相手が存在することを認めること」なんだと思う。

まぁある意味当たり前といえば、当たり前なんだけど、当ブログは更にもう一歩踏み込む。

 

トライエックス 皆藤愛子 2019年 カレンダー CL-210 壁掛け B2

トライエックス 皆藤愛子 2019年 カレンダー CL-210 壁掛け B2

 

 

性質を認める、性質を持つ相手の存在を認めるってことって、何か似てるなって思った。

あ、これ母親から子供に注ぐ愛情だ、と。

母親は、子育てをする時に、むずかる子であろうと大人しい子であろうと、言語を話せない子供に「変わってくれ!」とは言えない。だから、その性質を認めて、対応をするしか手立てが無い。これが無償の愛とかって呼ばれるやつよね。

 

 

 

僕の考えなんだけど、「愛する」という行為は、自分に対してしかできないものなんだと思う。

愛は、自分の中にしかなくて、外に出すと嘘になる性質があるんだと思う。正しいことを言うことは正しくない、と一緒。本当に自分の中にあるのなら、外に出す必要が無い。それをわざわざ外に出すってことは、相手を認めていないってことになっちゃうからね。

じゃあ疑似だとしても、母親がなぜ子供を愛せるかというと、元々自分であったから。母親の中で育って、一体であったものが、出産を通じて分離する。自分であって自分じゃない存在。だから、自分を愛するに近い、ある意味で本当っぽい愛。

 

まとめる。

愛するというのは、認めること。性質や存在そのものを認めること。

他人を「愛する」というのは「『自分を愛する』の外部化」だと思う。

自分を愛することから始まり、母親から子供に対する自分であり自分でない存在に対して愛すること、そして自分から他人へ愛することというように、段階を経るもの。

 

あぁ分かりづらいよね。そう思う。もっともっと分かりやすく書きたい。