僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

失敗と自立

札幌にいた時に勤めていたNPOが、クラウドファンディングを始めている。

readyfor.jp

「若者が安心して失敗できる」って言葉、非常に良い。心にグッとくる。

失敗って失敗としなければ失敗とならない。成功も同様で、成功と思わなければ成功じゃない。その論理は(少なくとも僕は)分かっているんだけど、経験不足なのか、環境要因なのか分からないけど、人はしり込みをしてしまうもの。

勿論どんなチャレンジかにもよるんだけど、人がチャレンジし続けるためには、チャレンジの回数が必要なんだと思っている。試行回数ね。

そうなってくると、リスクとか恐れとかを見据えながら「うりゃー!!」って飛び込まなきゃいけない。それは自棄行為。

だからこそ、失敗を許されたチャレンジが必要なんだと思う。

 

あれ、そもそも失敗ってなんだろう。

借金?ホームレス?離婚?預貯金ゼロ?

外的要因は沢山あるんだけど、そのリスクがあると感じているならばそうならないように工夫をしなくちゃいけない。自分にとって失敗がもし借金をこさえることなら、借金をしない範囲で生活や企業活動をする。ホームレスにならないことなら、家賃は払おう。

単に厳しいことが言いたいんじゃなくて、自分で設定した失敗の定義に追いやられるまで、自分で自分の決断を決められない・動けない状態になっちゃうことが、失敗だと思う。

 

うわーーー!!!!耳が痛い!!!僕だ!今の僕だ!

 

動けないこと以外では、死ぬことが僕の失敗。死んじゃうと何にもできないからね。

あ、僕が怖いのは、何も出来ないのが一番怖い。閉所恐怖症だし拘束恐怖症。

死ぬよりも怖いのは、ただただ食事と空気と寝る場所だけあって、何もできない状態なこと。あれ、今の僕か。

やりたいことは明確にあるしそれに向かって進んでいるけど、些細なことで「ワタシハナニモデキナイダメナニンゲンデス・・・」となっちゃう。そうなると、未来のことなんか想像できない。自分の心の悪いところばかりに意識がいく。

 

きっとだけど、そうならないことが自立なんだって思った。経済的な自立も大事。大事だけど、精神の自立がもっともっともっと大事だと思う。

 

じゃあ精神の自立ってなんだろう。

どこにいても、何をしていても、他人に何をされても、揺らぐことのない、自らコントロールされた心。そんな感じかな。

ガンジーが射殺されたときに、額に手をやって「あなたを許します」とやったのは有名な話。

そんなところにまで多くの人が辿り着かない。コントロールの領域が他人まで及ぶのがすごい。だって、めっちゃ痛くてびっくりして、あぁ死ぬなーって分かっていた時まで、他人に関心が向かないよね。

普通の人達はそんなところまでたどり着かないから、色んな条件を整えるんだと思う。

今の日本だと、人間関係、仕事など、「精神が自立できる」場所に自らを置くこと。

これが出来ることが、精神の自立なんだと思う。

本来的な意味では、ガンジーのやつが自立なんだろうけど、確かめるのが非常に難しいし、確かめる価値が無い(確かめるために人の命を使うのは本末転倒という意味で)。

 

ガンジー (字幕版)

ガンジー (字幕版)

 

 

失敗について定義。

「失敗とは、自らが定義した状態であって、予期せぬこともあるが多くの場合、回避可能。よって、回避行動ができなくなること自体が失敗であって、そこに耽溺し労力や時間を費やすことが失敗の本質である。」

精神的な自立の定義

「自分の心を統御し、常に良い状態にあること。それが他者にまで肯定的な影響を及ぼせる可能性を秘めている。しかし、現代的でかつ実用的な例としては、ストレスの原因となりやすい仕事や、人間関係など、自らの精神が心地良いところに置く選択をできること」

 

これってぐるぐる回るよね。失敗しないためには、精神の自立が必要で、精神の自立には失敗しないことが必要。

それを担保するのが、親からの愛であったり、僕の勤めていたNPOのような「安心して失敗できる」状況。

待っていてな、若者諸君。おじさん頑張るからね。