僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

幸せ色々

幸せの形はいくつもあるって思う。

ホモサピエンスが遊牧してみたり、農耕してみたり、生きるために自分達なりの生活の形を作っていったように、現代人も色んな形の生活があって、幸せがあると思う。

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昨日、夜遅くに西友に行った。最近、西友を見直している。価格が驚く程安い訳ではないんだけど、平均値よりも低い商品が沢山ある。鶏むね肉と卵の価格が安定しているのが嬉しい。

そこでアイスを買って、店先にあるベンチに座って食べた。するとカートを押した浅黒くて小さいお爺さんと、夏なのにビニールのジャンパーを来た色白のお爺さんが来て「座っていいかい」と言う。僕は立ち上がって「どうぞ」と言う。

すると色黒の方が話しかけてくる。「今日はパチンコで1万7千円も負けちゃってさ~」。僕はもったいないよ~とあえてため口で返す。その後も、夏がもう終わるねなんて話す。2人とも嬉しそう。

23時になった頃、いそいそと2人がカートを押して店内に入っていく。あ、この時間から惣菜が半額になるのね、と思ったらやっぱりそうで、戻ってきた2人はカートにまぁまぁの量の惣菜を入れてきた。

僕が帰ろうとすると、「気を付けてね~」と嗄れ声でいう。

きっと彼も、彼の幸せを見つけた人。老人になったら誰もが縁側でお茶をすすりながら、囲碁を打つ生活が幸せなんじゃない。時に子供のように、時にホームレスのように生き永らえていることが幸せだっていう人も、必ずいる。囲碁を打つ生活を作り上げる労力に対して、そのリターンが見合わないだろって判断しているんだろう。そりゃそうだ。だから、その労力を惜しむことが幸せであり、その惜しむんだ労力を他のことに注ぎ込んだのが、今の彼らの生活。

 

もっともっとある。幸せの形。

僕の父は、祖父が遺した会社と財産を使って、贅沢しながら生きている。実家の空いている部屋には、ルイヴィトンとかのお洒落な袋が沢山置いてある。ニットジャケットにハットをかぶり、踝ソックスを履いて革靴を履いて、仙台の町を高級外車で巡っている。

母親と同居して、お手伝いさんを雇って、仕事をしているのかしていないのか半端な生活。ちょっと寂しいというけど、きっと彼が出来る範囲で、今の幸せはそういう風になっているみたい。

 

島倉千代子は人生いろいろと歌うけど、幸せだっていろいろ。厄介なのが、自分にとって「普通」であることが幸せの意味だという点。

幸せって、1000万円ゲットだぜー!うっほー!も、幸せの形なんだろうけど、それはきっと興奮。興奮と幸せの区別をつけないと、きっとむなしさが襲う気がする。

昔気質の社長さんは、毎日「興奮」を求めてキャバクラとかだ大豪遊する。お金を使えば使うほどリスキーで、刺激が増す。そのためのお金。

興奮も必要だとは思う。何にも感動せず、全てを受け入れる人生はきっとつまらないだろう。

 

普通が幸せってよく言う言葉。地味に働いて、妻と子供を養って、マイホームを建てて、老後はボランティアとかをして過ごす。親の介護でひと悶着あって、自分も年老いて、死んでいく。そんなイメージ。大多数の人が、こういうイメージ。

けど、個人にとっての普通がすなわち万人の普通でないように、個人の普通はどんな形であれ、自分にフィットさえすればそれでよいと思う。

むしろ現代では「万人の普通」が先行して、逆に皆がそれを追い求めるようになっているようにすら思う。普通は普通であったはずなのに、理想化していきより普通という価値が高まる。だから、その生活を得られた人「が」幸せ。という構図。そのパイは、未だに沢山あるけど、日本で1億人分は用意されていない。

故に、というか、必然として個別の幸せを得る必要があって、それが普通でない普通みたいなことになると思う。社会の総意(っぽい)の普通から、個人の独自的な普通を探すことそのものが普通という考え方。

自分が何を求めているのか、自分にとっての幸せがどういうものか、それが大事で、万人の普通を追い求めるんじゃなくて、自分の中の普通を追い求める方がきっと幸せに近い。