僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

ロケットマンと枯渇の恐怖と告白と

ロケットマンを観てきた。エルトンジョンの半生を描いた映画。

 

ロケット・マン

ロケット・マン

 

 エルトンジョンは小学校の頃、ベストアルバムが家に置いてあったのを勝手に聞いていたような思い出がある。せつなくて、繊細な歌声。とっても好き。

前日の夜に広告を見て、行こうと決心して次の日の昼過ぎ上映のものにする。

人がごっちゃりいるアリオの中を通りすぎて映画館へ。ロフトとかゲームセンターにいるカップルやら子供連れやらが、1人で歩く僕を訝し気に見ている気がする。きっとそんなこと無いと思うから気のせい。

ここに来ると、やっぱり人混み嫌いだったなぁってしみじみ思いだす。誰と目を合わせたくなくなるから、サングラスを掛けたくなる。でも、室内で掛けるのはちょっと。あ、エルトンジョンもそういう風にしてサングラスを掛けるようになったのかな。

下手くそなギタリストのあいつは、観客に表情を読まれないように、目を合わせなくて済むからステージ上ではサングラスをかけるんだと言っていたなぁ。

そんなことを思いながら、チケットを買ってガラガラの客席に座る。

 

彼が過去を述懐するシーンからこの映画は始まる。

車座になって、誰かが話しているのをみんながふむふむと聞くやつ。外国の映画で良く出てくるよね。

エルトンジョンは音楽の神様に愛されていたんだと思う。中村俊輔が、幼稚園の頃から他の誰よりも遠くにボールを飛ばせたように彼も、耳とか記憶力は天賦のものがあったんだろう。うらやましい。

だけど、それだけだと飛びぬけられないのが世の中の道理なのかなって思っている。特に運動じゃなくて文化活動。

エルトンジョンがスターになるためのラストピースになったのが、両親からの不完全な愛情。

岡田尊司さんの著書にも沢山書いてあるように、夏目漱石太宰治らの文豪は自分の中の欠けたものを探すように創作活動に打ち込んで、名だたる存在となった。その原動力となったのも、幼少期の愛着が原因だと思う。

なんでそう思うかって、自分で文豪と比較するのもおこがましいんだけど、満たされない愛のために書いているなって思う。だから、嫌なことがあればある程回復した後になったら書けるようになるし、書いてやろうっていう原動力にもなる。

だから、エルトンジョンも夏目漱石の気持ちが、すごくよく分かる。

満たされないから、自分と向き合いそれを具現化する。

才能の正体は、愛情の不足だと言っても良いくらい。足りていないがゆえに染み出る、せつなさに人は、自らの悲しみを同調させて聞き、歌う。

人は悲しみを同調させたい生き物みたいで、このブログでも、めっちゃしんどい時期のことを書いた時に結構アクセス数が増える。

僕は、きっと山場を越えたと思っている。愛情の不足をずっとずっとずっと抱えてきたけれど、勉強と経験で、愛というものを掴みかけている気がしている。もしかすると後の人生は惰性になるのかもしれない。

それはすなわち、異常なほどの創作意欲や、乾いた砂漠にいるような飢餓感がなくなるということかもしれない。現に僕の心は、しっとりとはしてなくとも、前ほど砂漠地帯のようなスコールでは潤わないほどの猛烈な乾きが今は無いし、洗面所で自分の顔を見ても、前ほど憂いを帯びた目をしていない。

だからこそ、ちょっとの不安がある。

これまでの僕が持っているものは、飢餓感だけ。持たざる者が実は持っている者よりも強いことがあるのが、世の中。

 僕はもう書けないんじゃないか、書いたとしても何の臨場感も無い記憶を2重3重に上塗りした、ちんけな言葉の羅列になるんじゃないか。もっともっと僕を傷つけて欲しい。エルトンジョンがドラックに嵌ったように、もっと落ちれば、心臓を掴んだ温もりのようなグロテスクで鮮やかな文章が書けるんじゃないか。そんな風に思う自分も確かにいる。

けど、不安よりも愛はきっとすごいし、楽なものはず。すごいものを作れなかったとしても大丈夫になるのが愛なはず。そんなことを考えていた。

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エルトンジョンが同性愛者なのは、有名な話。ヘテロセクシャルの人があんな派手な服装はしないだろうから、まぁそりゃそうだよなってなる。

僕が小さい頃、やたらくねくねしていたらしく、こいつは本当に男なのかと心配になったらしい。そのせいか、元妻といる時、時々おかまになっていた。名前はず子。僕のあだ名がりょうずだから、ずだけをとってず子。時々会話に困った時に「そうなのよ~!」と言ったら必ず面白い。言葉自体は冗談なんだけど、心持ちは冗談じゃない。僕の中の女性性というよりも、性別を越えた時になるであろう姿が時々心の中に現れる。フレディマーキュリーもエルトンジョンもきっとそんな感じなんだと思っている。上手く伝わらない。

母にホモだと電話で告白するシーン。彼女は「あなたは誰にも愛されない孤独な人生を歩むことになる」と彼を突き放す。僕は思わず「違うんだって、世の中じゃないんだって、あなたに伝えたことが大事で、その告白したことを受け止めてほしいだけなのに」って、同調して歯がゆい気持ちになった。

なんでそうなるんだろう、母親。わざわざ電話で、思いつめた様子で告白したことを、自分の気持ちじゃなく、社会を通した言葉を息子に投げかける。こんな残酷なことがあるだろうか。

まぁ世の中は、D4C。いともたやすくおこなわれるえげつない行為(漫画ジョジョのセリフね)。そんなもので満ち溢れている。

僕は、世の中で一番大事なのは人の心だと思っている。24時間テレビとかで言われていそうな「人1人の命は地球より重い」っていうのは嘘。きっと言葉が足りなくて「人1人の心は、その人にとって地球より重い」だと認識している。

金は命より重い、そりゃそうだ。100万円のために死ぬ人も多分いる。お金が大事だから死ぬんじゃなくて、心が大事だからお金を大事にする。そういう流れ。生命活動とか、経済活動に意味があるんじゃなくて、それをする心に意味があるんだと思う。

その心を突き動かす原動力にも、心をフリーズさせるようにもできるのが愛である。というのが今のところの僕の見地。

その時のエルトンジョンの気持ちは如何許りか。あなたに伝えたことに意味があって、あなたに大変だったねって言って欲しくて伝えて、あなたが認めてさえくれれば世界の誰からも認められなくていいって思っているはずなのに、近しい家族がゆえに許されない。あぁ無情なり。めっちゃ泣いた。

僕だってきっとそう。母親に認めてほしくて、母親を助けたくて、っていう思いがあってこういうブログを書くようになっている。

エルトンジョンは歌と派手な衣装で、僕は今のところ文章で。愛が何たるかを探し続けているんだと思う。