僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

欲望に忠実

昨日、おじさんとイチャイチャしていた。

まず、上田で一番仲良くさせてもらっている友達(42歳)とおそばを食べに行った。

車で40分くらい。着いてみたら、なんと休みの文字が書いてあったのだけれど、友人が「ちょっと声かけてきます。もしかしたら食べさせてくれるかも」と言う。1分後に車に戻ってきて「狙い通りです」と笑う。

蕎麦は、十割。麺つゆはほうじ茶よりも淡い色で、甘味もダシの味も薄い。でも蕎麦感の強さとマッチしていて美味しい。

その後、カフェでコーヒーを飲んでアイスを食べて、温泉に行き僕の家で麻婆豆腐を作って食べた。食後はレディーボーデンのチョコアイスに、アーモンドチョコを砕いたものを乗せて食べた。満腹。そういえばアイス2回食べたな。

 

 

12時間以上も一緒にいて、どんなことを話すのと聞かれた。

名前を付けずらいんだけど、哲学的に言うと「アウフヘーベン」。僕の家の言葉で言うと「2つのうちどちらか迷ったら両方」。そんな話。

 

アウフヘーベンは、日本語にすると止揚。2つの選択肢のうち、どちらか一方じゃなくて両方の良いところをとってより良い形にしていく。ヘーゲルが言った言葉。

僕の家の言葉で「2つのうちどちらか迷ったら両方」は、多くの場合買い物や飲食店で言う言葉。以前は「迷ったら高い方」だった。

けど、それだとどちらか一方は頼まない選択となって、ちょっぴり悲しい。どちらも欲しいというのが、一番自分の欲望に忠実。だから、アップデートされて「両方」となった。

 

友達が言うには「概念」の話。彼が言う「概念」とは、以前書いた「見えている人」と「見えていない人」の話とも通じる。

 

yashimaryoz.hatenadiary.jp

見えていない人は、見えていないがゆえに見えていない。近視眼的になっていて、物事の構造が見えていない(良くも悪くもね)。一方「見えている人」は 、俯瞰が出来ていて物事の構造自体に対して考察が出来る。

僕と彼の間では、「見えている人」が限りなく良いに近くて、「見えていない人」が悪いに近い。2人の間ではね。

 

何度も何度も、具体と抽象を行き来する。まずは抽象。

物事は上手、下手やすごいすごくないという概念があるけども、そこから逸脱した時に始めて俯瞰が出来て、他人に教えられたり、表現ができるものだよね。と。

そして具体。彼は学生にスキーを教えている。本当であれば「スキーとは〇〇で~エッジの角度は〇〇で~」と押し付けたくなる。でもそれは、本人のエゴ由来の言葉になってしまうと。本当に教えるのであれば、自分が2歩も3歩も目線を下げて(要は相手の気持ちになって)言葉を選ばなければならない。だから、滑る際にどうしても目線が下がってしまう生徒に対して「自転車乗る時に、ちゃんと漕げているか目で見て確認はしないよね」と言う。

そんな風にして、形而上学というか概念的な話をして、じゃあ実際にはこういう風にその概念を運用したよっていう話の連続。ほとんど全てのことに対して、適用されるからエピソードトークは無限にある。だから、無限に行き来できる。

 

なんで、こんなに話が合うんだろうって考えた。

当然、「概念」を理解しているってところなんだけど、もっと深い部分。

それは親とか発育、教育について死ぬほど考えたことがあるかどうかなんだと思う。

僕も彼も、大学院を出ていて、自分と向き合う時間を沢山持っている人。思考についての思考。自分がなんであるか、自分の出自がどうなっているかに関心があること。根本的にはどういう部分で繋がっていると思っている。そんな人は、きっと大学の哲学科に行けばごまんといる。

僕らはそれにプラスして、明るいってことだと思う。心の中は真っ暗な時があるとしても、他人と話す時は明るい。そんなタイプ。

 

彼には子供を素敵に育てるという目標がある。そのために、彼女を探している。

けど、よく考えたら子供が欲しいという願いって、相手が必要でその相手は当然妊娠できる体であることが必要。よくある流れとしては、お付き合い→結婚→子作り→子育てである。

でも、彼の中で子供は必須。もし相手がどんなに好きでも、子供が出来なければその野望は達成できない。妊娠ができないからって、女性を捨てるみたいなんてことは、倫理上かなりヤバイ。

「きっと、できちゃった結婚になると思うんですよね~」。と彼は笑う。

クズである。クズなんだけど、それだけ欲望に忠実である。やり方なんて善悪が大事じゃなくて、できたかできないか。

欲望に忠実であるからこそ、自分を突き動かせるし、他人も動かせる。