僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

他人の快適は自分の不快で、その逆もありけり。

昨日、台湾人に言われた。「自分の言葉を違う言葉で言い換えられるのは、ある程度以上、脳を使える人じゃないとできない。だって〇〇さんは僕にスノーボードを教える時も、会話もずっとヤシマさんの翻訳が必要だったでしょ。思い出してみて、▲▲さんは日本語しか使わないけどヤシマさん無しでも会話になってたでしょ。」

驚いた。気が付かなかった。確かに、ルールが大好きな知り合いの女性は、外国人が困った顔をしていても、日本語で同じ言葉を繰り返していた。方法を変えるって難しい。窮地に追い込まれれば追い込まれるほど、体に馴染んでいる方法を採用する。思い起こすのはフットサル。大抵の人は出てくる技に限りがある。足の裏でボールを転がして股を抜く、足の外側で横にボールを出すカットイン。至極当然なんだけど、技は状況に応じて使わないとその効果は充分に発揮されない。でも、相手に寄せられて困って、頭が混乱したとき出てくるのは、それら。脳がストレスの反応とその処理で固まっているから、状況に応じた適切な判断ができない。

だからいつものやつ。父親が、毎朝行くコーヒー屋さんも、母親が上京の度に行くホテルも、理由はコスパじゃない。行ったことがあるからだ。自らを快適にするために、人は動く。品川を最初に訪れた時の母は不快だったろう。山手線に乗ってみて、エレベーターに乗って、寝てみて快適さを獲得したんだと思う。カットインも、喫茶店も、ホテルも外側から見たら、変かもしれない。ただ、その人の快適さがある。それは忘れてはならない。

インドネシアの屋台で働くおばさん達は物理的に手の届く範囲でしか、生きていなかった。僕の言った注文をまばたきするみたいに瞬時に受け取って、息を吸うみたいに袋に食べ物を入れて、息を吐くみたいに僕に放って寄越した。それが済むと一秒も待たずにまた汚い店でアイフォンをいじり始めた。「何でこの人はもっと稼ごうとしないんだろう」「なんでこんな対応なんだろう」。僕の正常からすると、醜い程に無知で、悍ましい程に馴染んでいる。ちょうど子供が部屋を散らかしながら遊んでいるみたい。当人は楽しくともそれを見た自分には不快感を伴う。

知り合いのおじさんに言われた。「ヤシマさんは他人のことみんな馬鹿だと思っているでしょ」。ショックだった。快適さの中にいる人を、不快な奴だ、愚かだ思っていて、しかもそれが伝わっている。「他人の快適は自分の不快」現象は確かにある。

ずっと考えている。自分とは何なのか。自分につける固有名詞が欲しくなる。忙しい人、格好いい人。自分の中にある一貫したものを探そうとして、今日家を出るときにも「僕は家をでたい人なのか」と脳が勝手に処理。違う。エラーだ。幾星霜とまではいかないけど、30年以上で積み重ねた行動を細分化するとほぼ無限。今も携帯を充電しながらパソコンを打っている。人差し指が動かせる人ではある。タイピングができる人でもある。家を出たのはデータの一個で、確定値じゃない。家を出た日もあれば出ない日もある。データには必ず揺らぎがある。だからこそ観測をする。事実、僕は家を出たい人でもある一方で、家にいるのも大好きな人だ。人差し指を動かせる人も、タイピングが出来る人も沢山いる。才能を発揮して特殊なる個を発揮する。そんな自分が見たいんだろう。傲慢だ。ひとりの人間だから。自分はスペシャルワンだって信じて疑っていないから。自己認知は自己承認から始まってゆっくり回転する。その狭間に、自分と他人の違いっていう碍子があって、時々ストップする。要は他人を俯瞰して蔑むと、僕の動きは止まる。

 

どうやら僕は頭が良い。良くも悪くも。