僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

循環システムと意思決定

今日3つ目の投稿。最初のは非公開にしていた過去の記事を引っ張り出してきただけ。

もうひとつは雑記。そしてこれがA群・B群シリーズ。一応これまでの投稿のリンクを貼っておく。読んでみてね。

 

「勝手に産むな」「なんで産んだ」を問う - 僕を考える

「親が憎い」は意味が無い - 僕を考える

矛盾したひとり - 僕を考える

 

1.前回までのまとめ

力の限りでわかりやすく書こうと思っているけど 、混迷している。短い言葉で区切ってこれまでの内容を整理すると以下のようになった。

「僕が対象としたい人は?」→「子供っぽくて辛い人」→「そうじゃない人との差は?」→「責任の有無」→「辛い原因は責任感の有無じゃないだろうか」→「なぜ責任感を持てないのか」→「親を含む他人によって産まれ生かされていいるから」→「親を憎いのは当然」→「でも親にも親がいて不毛な議論だからやめた方が良い」→「責任感を持つにはどうしたよい?」→「ひとりであることの認識」

という具合。

 

2.自分ごととする理由

前回の投稿では、命は独立して存在している。けれども同時に、生命の連鎖や社会的関係性に内包されていて逃れられないと書いた。

きっと世の中には、生まれたら死ぬ、というとても大きなルールしかない。

それ以外で地球を網羅するルールがあるかと言われたら無いと思う。

その大きなルールが生命の連鎖であって、万物が循環して自分を形成している。そして僕もあなたもその循環の中に組み込まれている。

そうすると、他人ごとは無くなる。全ての事象が自分のせい。それと同時に全ての事象が隣にいるおばちゃんのせいでもある。

経済のシステムは命の循環をお金を使って分かりやすくしていると思う。トラックで運ばれてくるお茶飲んでいる僕は、それを買うためにゴルフボールを作っている。そのゴルフボールを打ちっ放しの会社が買って、そのゴルフボールを使ってサラリーマンがストレスを解消している。みたいに。

 

この命の循環の中にいるって思うと僕も社会の一員じゃん、ってなる。

 

無職が何言ってんだボケって思うでしょう。けど、妻は社会と繋がっていてそれと繋がっている僕は、社会と繋がっている。こうしてブログも書けているしツイッターもできている。成員ではないかもしれないけど、一員。

 

2.選べる

めっちゃ偉そうなことを書いた。自然とか万物とか循環とか。避けて通れない。だからちょっと恥ずかしいけど書いた。

「命が循環しているから、すべてが自分ごと」といった話は、あくまで題目。人の意識には限界がある。アフリカの子供が飲んでいる水がどうなっているか僕は見たことがないし、クリスティアーノ・ロナウドがどんなシーツで寝ているかも知らない。ルールのうえでは関係はあるけど調べる気もしないし、別に知りたくもないことだから知らないまま。意識しない。

 

要は選べる。好きだって思ってやりたいことも、嫌いだと思うからやりたくないことも選べる。全部一緒のルールから出てきたもので自分のものだから。

人は自分が好きなことを選べたら大人(このブログでいうB群に)になれるんだと思う。本当は地雷撤去もしたいし、黒人差別だって気にはなる。でもしない。好きなことを選ぶってことは同時にしないことを選ばないってこと。意識の外に置くこと。

お腹がキュッと痛くなる。それが選択の責任なんだと思う。

 

きっと大人の要件は、やることを自分で選択できる人なんじゃないか。

行動を決めるのには、すごーく色々な意味が込められている。

「命の循環のルール」を理解しているから、全てが自分ごとであることを理解していて、でも全て自分ごととして受け止めているがゆえに、することと、しないこと両方の責任を自覚し、行動の選択ができる人だと思う。