僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

対話

今日の夜ご飯は、冷凍庫にあったローストビーフを解凍して食べた。

こんなお肉を食べたのは久しぶりで、感動してウホウホ食べた。

これで冷蔵庫にあるものは調味料を除いて蟹が一杯と人参と大根の切れ端とジャガイモ1個。

喧嘩すると妻は食料品を買わない。僕も買いに行けるだけのお金が無い。

だから、安っっっすい米ばかり食べているからインスリンが過剰に分泌されて喉が乾く。

 

妻が帰ってきて、知り合いが亡くなったと連絡がきたという。

上田に来た直後、コンビニの前で煙草を吸っていた時、僕のバイクを見て声をかけてくれたおじさん。

最初はクリントイーストウッドみたいだなって思った。歳がいっているのに、背が高くてカッターシャツジーパンにインしていているアメリカンスタイル。

よくよく話を聞くと、車屋さんを経営されている人らしくそこで軽トラを買うことになった。

THE田舎の工場って感じの場所で、工場の奥にはソファーがある。行ったら必ずそこでお茶とお茶菓子が出てくる。そこで色々喋る時間がこの会社の売り。それが背丈だし、それが田舎に求められているもの。色んな会社が言うけど、ここは正真正銘の地域密着。

お葬式があるそうだけど、行かないことにした。香典も払えないし、死んだ人を知らない人だらけの場所で悼める体力は無いと思うから。

3日前くらいにふとその方のことを思い出して、きっとそろそろ亡くなると思っていた。でもその時にもお葬式には行かないって決めてた。だから行かない。

思い出して、ありがとうって思うのが僕ができること。

 

僕はサッカーとフットサルが好きで色々な記事を読んでいる。Facebookでもフットサルチームの情報を追っていて、それなりには知識がある。

その中でふと気になった表現がある。よく監督を性質を伝える言葉で、対話重視の監督だ、と。

 

よく考えたら、対話ってチームスポーツで重要なんだって思った。当たり前だけど当たり前すぎて分からなかった。といいか忘れていた。

それって家族でも同じじゃない?

 

雑談は出来ていても対話ができないと、家族じゃないんじゃないの。助け合うのが家族で、心を開いて分かち合うのが家族だと信じていたけど、僕の今の家族は違う。

自分を守ることしか考えないで、相手がどうとかそういうことは思考の外。甘えるとかの範疇じゃなく、思考の内部に自分がいるかどうか。

きっと僕はいない。悲しいけど。

だから「こうすればこいつは喜ぶだろう」って言うのを僕は受け取れない。本気じゃないから。

 

自分が違うと思ったものは生活から排除していこうと決めているから、まずはそこからなのか。分からない。

 

僕はたくさん苦しんだ。自分の命を恨んで、でも死ぬ勇気は無くて、それで又自己嫌悪に陥って。

だからもう苦しむのはいいでしょ、って何度も自分に言ってようやく元気になってきた。

でも今まさに苦しい。

これでまた寝込みだしたら、元気になったきっかけも何もかも嘘になってしまう。そうなっても僕の命は続くだろうけど、生きていたくないって思いながらでしかないと思う。