僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

具象化への憧れ

昨日の夜は、久しぶりにタリーズに行った。

いつも通り、ダブルのエスプレッソ。この日三回目のコーヒーだったから、後からしんどくなったのは秘密。

 

昨日読んだ本。沢木耕太郎 「銀河を渡る 全エッセイ」

 

銀河を渡る 全エッセイ

銀河を渡る 全エッセイ

 

 沢木耕太郎って、もう普遍的なキャラクターになっているよなって思う。

旅人とかバックパッカーとかってイメージじゃあもう物足りなくて、沢木耕太郎そのものっていう具象。

と思って沢木耕太郎とグーグルで打ったら、71歳と出た。もうそんな御歳なのね。

やけに文章に無駄が無く洗練されているなと思った。

 

彼のことを詳しくないんだけれど、旅人兼作家という認識。

最高だよね。職業旅人、中田英寿。旅を文章にしてごはんを食べる。最高以外で表現しようが無い。

 

旅人に憧れて、台湾では安いゲストハウスに泊まって2週間ふらふらした。

コンビニの前にある椅子に座って、隣で椰子の噛み煙草をくちゃくちゃやってるおじさんを警戒しながら、向かいの店先でクラシックギターを爪弾くおじさんを眺めてた。

旅は、強制的に現実を受け入れる体験。

日本じゃなくて海外。ここでは僕が外国人。知らない場所で名前も知らないおじさんのギターを聞く。圧倒的な知らないものの量。

評価する程には情報が無さ過ぎて、椰子煙草おじさんの汚い歯も、ギターの音も五感に入ってくるだけ。

 

ぼうっとしていたら、急に立ち上がっている。立ち上がってから心の中で(・・・行くか!)って言う。古いRPGゲームの、次の場面に行かされるシーンみたい。

ふらふら歩いていたら、同じドミトリーの黒人が歩いている。オランダっぽい感じで、背は小さい。音楽を聴きながら彼も目的は無さそう。

夜中電話してたのお前だろ!バカ!って思いながら、また歩く。

暇だから台北駅に何度も行く。素敵な外食をするお金は無い。ただ駅の中を歩く。

 

駅の真ん中が広場になっている。列車を待っているのか、多くの人が地べたに座ってる。僕も時間しかないから座る。床は思ったより汚い。

駅の入り口付近にはホームレスがいて、シートをひいて座っている。僕はジーパンのまま。現時点でいえば、僕の方が装備が心もとない。

 

宇多田ヒカルが、イメージの邪魔をしているのは肉体だけだって言っていた。肉体っていう容器を使って心の中にあるイメージを伝える。っていうことだろうか。

 

ホームレスの人は自分の立ち位置がはっきりしている。物乞い。家無し。イメージを伝えるうえで無敵。

僕は、旅人なのか家が無い人なのか自分でも曖昧。伝える言葉も無いし、行動もできない。伝わらない本人のイメージ。

曖昧な存在なのは日本に帰ってきてからも同じ。何してんの?って今も言われたくない。だから、シンボリックな存在に憧れる。僕そのものが僕だよ、っていう厚かましさも無い。

僕が本名をインターネットで出しているのは、僕は僕でしかないって思う練習。

誰もあなたはあなたのままでいていいんだよ、って言ってくれないから、僕自身がまずそう思うことにする。その鍛錬。