僕を考える

心の言語化の場所としてブログを書いています。

反芻してみよう

昨日はめっちゃ寝られた。12時くらいに寝て、昼の11時過ぎまで寝てお菓子を食べてまた寝て15時くらいまでまた寝た。

寝られないけど、活動している時は眠たい。だからコーヒーを飲んでやり過ごす。僕の場合、寝ていないストレスは食べ物で晴らそうとするから太る。サラリーマンとかってこういう感じで肥えていくのよね。深夜の松屋で、お客さん全員が男性で、全員がご飯特盛を頼んでいたのは流石に笑った。あ、僕は大盛りに留めた。

深夜、ストレス、松屋を足したら、必ず特盛おじさんになると思う。皆ガツガツ我を忘れて食べていた。

 

 

 

沢山寝ている間、昔の職場の夢を見ていた。仲の良い同僚となぜか仕事中に映画を見ていて、勤務終了時間までやりすごそうとしていたら、怖い女性の上司が来て怒られる。そんな夢。

夢って、顕著にその時の精神状態をあらわすと思っているから、自分じゃ分かれなかったことを、自分自身が外部かして理解できる良い機会。夢。

 

物事って、反芻が大事だなって最近思っている。

当たり前かもしれないけど、語学学習には時間が必要。そういう努力するっていう意味の反芻じゃなくて、もっと心の部分の話。気が付くと英語が喋れるようになっていた!は信じていないけれど、気が付くと英語の勉強がスムースにできるようになっていた!は起きると思う。

その「気が付くと」の部分に、反芻が必要だと思う。物事に良いも悪いも、正義も悪もほとんどない。悪いものは司法が取り締まってくれるはず。(という信頼)

だから、英語を勉強するべきか?という始めて間もない頃に起こりやすい葛藤は、やってみたら分かるし、やってみて一回やめちゃうってことで分かると思う。

どういうことかっていうと、やってみて、やっぱだめだー。やってみてやっぱだめだーってやっているうちに、できるようになることもあれば、やっぱりできるようにならないってこと両方ある(当たり前)。

それでね、やろうとしている物事は、「やりたい」もしくは「やらなければ」と思っている自分がいるからやろうとする(これも当然)。だから、一回やってみる。辛くて、やれなかった自分がダサくて、っていうストレスがかかる。もし、少し経ったあと、それでもやろうとする自分がいることに気が付けると思う。

好きとか嫌いとかはあるし、僕が今から100mを10秒で走るようになることは、いくら反芻してもできるようにならない。物理的な限界値は必ずある。

でも仕事とか、人間関係のような社会的なことって、幸いにしてやりなおしが効くようにできているから、何回だってやり直して(反芻して)いい。

反芻して反芻して、辛くて、やめたくても、どこかで諦めきれないことって、きっと人生の目標か、その一部であることが多い。

だから、反芻は自分に気が付かせてくれる。それが大事なんだと思う。人間は馬鹿だから、一回では学ばない。一回やってみて失敗しても、次どうしようって改善策を講じられない。特に人間関係ではね。痛い目を見て、痛い目を見て、それでもこだわってやり続けることは、絶対自分の中の譲れない部分で、変えられない目標みたいなもの。それって、きっと生きる意味になる。

ずっと失敗して失敗し続けてるってことは、やり方が駄目。そうなんだけど、その根本にあるやりたいってことは、痛い目を見れば見る程、明確になる。

 

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僕で言うと、「人に分かってもらう。」だと思う。

失敗して失敗して、今も失敗し続けて、やり方を変えて、今もやり方を変えようと模索し続けている。だからこそ、人生の課題であるし、僕の生きる意味。

やり方にこだわるのは、甘えだと思う。このやり方じゃないとだめ、は時間の無駄。でも、根本にあるこだわりは不変なんだから、どんどんやり方を変えてどんどん失敗して生きる意味を自分の手中に収めたらいいんだと思う。

物事の反芻も大事だけど、物事の反芻を通して、心がどういう状態になるのかそれを見つめる経験が、自分という存在をクリアにしていくと思う。